阿多古和紙作家の大城忠治さん(89歳)の面の作品も見せてもらう。懐山の「おくない」という祭りに使う面だ。
幽玄で味わい深い。「すごいものですねー」と感心すると「そんなもんかいのー」と意に介さない。
和紙も作る。人形も作る。面も作る。田んぼもされる。芝居の台本もされる。いつも明るい。大人(たいじん)である。そうして、なにより温かい。
阿多古和紙作家の大城忠治さん(89歳)の面の作品も見せてもらう。懐山の「おくない」という祭りに使う面だ。
幽玄で味わい深い。「すごいものですねー」と感心すると「そんなもんかいのー」と意に介さない。
和紙も作る。人形も作る。面も作る。田んぼもされる。芝居の台本もされる。いつも明るい。大人(たいじん)である。そうして、なにより温かい。
きのうは、はからずも作家さんを訪ねる旅になった。竹細工、陶芸、和紙、人形、布絵。みなさん80代後半。
作品も、もちろんすばらしいが、その生き方、お人柄そのものがすばらしい作品だ。感銘することしきりであった。
こちらは、竹細工の鈴木さん。89歳という。マルカワの蔵でお会いした。数年前に、春野の竹林を案内したことがある。
手仕事を学ぼうとしたら、山里には、こういう立派なお師匠さんが、あちこちにおられる。そして、技を伝授したいと思っておられる。
布絵作家の竹山美江さん(83歳)が、こんどは仏像とお地蔵さんを制作しておられた。作品の一部。8月に阿多古の家で個展。日々、創作に励んでいる。
次のテーマとして、高島野十郎のろうそくの絵のようなものも提案してみた。帽子と脚絆をいただいた。
それこそ「日本民芸館に置いたらさぞや」、柳宗悦がみたら、おお!というような骨董品があった。それを一つ一つ、拝見させてもらいながら、いろいろな語らいを楽しんだ。
きのうの阿多古のアーティストめぐり。骨董屋の三の市も訪ねた。ここのおかみとは、いつも楽しくスピーディーな会話を楽しめる。
相手は死んでしまっているかもしれない。なによりも、自分が死んでしまうかもしれない。
豊かな生き方、見事な生き方、際立った生き方をしている方と、よく出会う。
あの時、もっとこういうことを聞いておけばよかった、こう話しておけばよかったということはたくさんある。
また、次に会えるからいいや、と思っていると、もう会えない。もういないのだ。
AIについて探求している。中国の経済・軍事的な脅威もあるが、AIを駆使したパワー、まことに恐るべしの感を持った。
以下、野口さんの「AI入門講座」(東京堂出版)から、興味深いところを、すこしピックアップしてみる。
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AIを駆使した中国の国民監視システムは、「天網」と呼ばれる。
街中にある監視カメラが、顔認証技術で人や車の動きを追跡・判別し、犯歴データと照合する。
これによって、通行人の性別や年代、服装などを瞬時に識別できる。カメラ総台数は、1億7000万台に及ぶ。
2018年2月には、顔認証ができるサングラスを警官がかけて、犯罪者の取り締まりを行なうことも開始された。
人混みを眺めるだけで、視界に入った人々の顔をスキャンし、その情報をもとに、データベースに登録された容疑者を照会して特定する。
(中略)
中国のこうした高いAI技術を支えているものは何か?
第一は、基礎研究力の急速な高まりだ。コンピュータサイエンスの大学院で、中国清華大学はマサチューセツ工科大学(MIT)やスタンフォードなどのアメリカの大学を抜いて、いまや世界一だ。
(中略)
警察は、標準的な情報収集の際においても、指紋や手のひら採取、顔写真、尿およびDNAサンプルといった生体認証データ、そして音声パタンを収集する。
公安部のデータベースには、10億人以上の顔データと、4000万人のDNAサンプルが記録されているという。
そうしたデータは、公民身分番号とリンクされ、銀行口座記録や、高速鉄道や飛行機での旅行、そしてホテルの滞在記録などの詳細な個人情報と統合管理される可能性がある。
(中略)
この背景にあるのは、デジタル技術の活用で形成されつつある史上最強力の権力基盤だ。
これを「デジタル・レーニン主義(Digital Leninism)」と呼び、習政権がAIを活用して、新しい統治システムを構築するだろうとの見方がある。
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以上「AI入門講座」(東京堂出版)より
「眠れないんです」と言うと、「では、電気羊が一日、電気羊が二匹」とえんえんと喋ってくれる。「今日の天気は?」と聞くと「午後から雨になりそうです」と答えてくれる。
「浜松駅に行きたい」と言えば、いまの場所から目的地までの地図が示され、道順と時間を終えてくれる。
「昭和28年は、西暦では何年ですか?」と聞けば、「1953年です」とこたえる。「10分後にアームしてください」と言えば、「はい、9時10分にアラームをセットしました」と答えて、そのようにセットしてくれる。
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これらは「音声検索」と「セマンティック」(意味的な検索。類似語とか、話す人の意図や文脈を判断する)機能があるからだ。いわばAIのすごさだ。
「7時に起こせ」「7時にアラーム」「7時に目覚まし」と言っでも、おんなじ意図だと理解しているわけだ。
「幸せになりたいんだけど」と聞くと、「では、こちらのサイトをどうぞ」と、幸せに関するサイトを紹介してくれる。まことに、すごい時代になってきている。
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音声入力は、iPhoneに装備されている「siri」という、いわば人工知能の力が大きい。電源ボタンを長押しすると、siriが出てきて「ご用件は何でしょうか」と聞く。
こんな便利な機能があったことに、今更ながら驚く。
使っている人には、そんなことは「あたりまえ」ことだが、「こんなに便利だったのか」と驚いた。
ちなみに、ぼくのケータイはiPhoneで、運転しながら、よく音声入力変換で文章をつむいでいる。文章作りは、かなりの比重で音声入力になってきている。ITの世界では、リープフロッグ(Leapfrog 蛙跳び)。ものすごい進歩である。
95歳まで生きるには夫婦で2千万円の蓄えが必要。
そのように試算した金融庁金融審議会の報告書(金融審議会市場ワーキング・グループ「高齢社会における資産形成・管理」報告書案)。
年金がない人は、さらにとんでもない額が必要になるわけで、おそろしい。
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もひとつ怖いのは、健康面だ。認知症だ。報告書では、こういうことも書かれている。
65歳以上の4人に1人が、認知・判断能力に何らかの問題を有している。
80歳から84歳では認知症の有病率は、男性は約6人に1人、女性は約4人に1人、85歳~89歳ではこの割合は倍ほどに増加し、以降の年齢でも認知症の有病率が増加している。
さらに、今後の高齢化と相まって、2025年には認知症の人は約700万人前後まで増加すると推計される。これは65歳以上の約5人に1人が該当することになる。
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さて、どうしたものか。
報告書の書かれていることは、とくに目新しいことではない。政府のありようを問題視し批判する世界もあるが、ひとつの冷厳な事実として、「わがごと」として捉えていかなければと思う。
まあ、こういう資金面と健康面から見ると、田舎暮らしは、生活コストが押さえられる(しかし、仕事はないが)、医療面も厳しい。
人混みが少ないのでストレスは少ない(地域とのストレスはあるが)、田んぼや畑仕事、川遊び、木工やら食品加工など(体力がいるが)、やることはたくさんある。
工夫次第で五感を働かせて活性できる世界ではある。
「企画はどんぴしゃで、求められているものなんです。でも、事業の継続性が気になります。いかがですか」。「継続するには、コーディネイトする人が必要になると思いますが、そのあたりはいかかですか。池谷さんひとりでがんばるのですか」……と問われた。
「がんばります」と言っても、ほとんど意味がないし。「う〜ん。継続性、なかなか難しいです」。「な〜んだ。いつも打ち上げ花火じゃんとよく言われます」と、正直に答えた。その時、すこし審査員から失笑が起きた。そうした滞り、空白、逡巡、悩みのどツボというあたりが、共感されたりする。ぼくはいつも、「立て板に水」になりがちなので、そんなところがまあ、いいのかもしれないと思いつつ。不全感は残る。
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ある助成金の企画提案の二次審査のときのことだ。プレゼンは7分間。質疑が8分。7分間で趣旨を説明するには、やはりパワポを使うしかない。ぼくの場合は、MacなのでKeynoteだ。それをPDFにしてパワポに使う。
パワポは視覚に訴えるので便利だ。でも、つくった順番に話をすることになるし、台本を元にレールの上を走るみたい。それは、うまくいくようであり、そのことがかえって上滑りな感じにもなる。聞かされるほうは退屈だと思う。なにもなくて、ただハートで伝えられたら、いちばんいい。プレゼンというのは、まさにPresence(いまここの瞬間の存在のありよう)なんだから。しかしまあ、それほどの力量がない。ハートもない。だから、パワポに頼ることになった。
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これまで、いろいろな事業は、数年は続けていっている(民間の助成金などでつなぎながら)。まあ正直、継続性というのは難しい。そもそも事業収益が上がらない企画なわけで、持ち出しというか、やるほどに細っていくわけだ。そして、プロデューサーといっても、いつも全部自分で仕切り、動かし、段取りしなくちゃいけないというところで、苦労している。ぼくが飽きっぽいのと、集中力が持続しないこともある。「最初の立ち上げで、助成金をいただくことで、環境整備と場作りができれます。あとは人と人とのネットワークができて、自然と継続していくと思います」。そうも答えたのだが。
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ともあれ、縁があれば採択されて、事業は進む。採択されなくても、自力のネットワークで少しずつ、進めていく。今回の企画は、親子の遊び場づくり、出会いの場作りということで、これは「わがごと」でもあるし。
あかり:「こころ」ってなあに?
おとうちゃん:「こころ」っていうのはね、さみしいとか、かなしいとか、いやだーとか、うれしいとかね。そういうのが「こころ」なんだよ。
あかり:じゃあ、ココアとどうちがうの?
おとうちゃん:ココアは甘くておいしいのみものだよね。あかりちゃんが大好きな。
「こころ」もココアみたいに甘くてうれしいときもあるし、おとうちゃんが大好きなコーヒーみたいに、にがいときもあるんだよ。
……というような会話をした。わかったかなあ。わからないだろうなあ。心を説明するのは、難しい。あかり3歳。
「ヘレン・ケラー自伝」に、Waterが水だという気づきが書かれている。いま触っているそのものがWaterだ。モノには名前があるんだという大発見。そこから、この世に存在するものには、すべて名前があることがわかる。次々と、名前を覚えていく。
ところが、心の働きにまで名前があるところまで、理解が進まなかった。
あるとき、ヘレンが考え事をしている。「考え」とサリヴァン先生が教える。
その時、考えとthinkが結びつく。そうしてやがて、愛ということも気づいていく。心の働きにも、名前があることが体得されるのだった。
天国に近い「南の島であの世へ旅立とう」という、新しい「看取りビジネス」……なるほど。
引用箇所は、この本の趣旨とはちがうところにあるけれど。ちょっと面白いので、一部を紹介。
上野千鶴子著「情報生産者になる」(ちくま新書)から。読みやすいように改行は、池谷が行っている。
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「孤独死」はますます「死ぬ側」の問題ではなく、迷惑をかけられる周囲、すなわち「死なれる側」の問題だ、ということになるでしょう。
男性の離別・非婚に、失業や貧困などの社会経済的要因が大きく関わっていることはわかっていますが、同じく貧困に苦しむ離別・非婚女性の「孤独死」件数は少ないのですから、貧困だけが問題ではなく、ジェンダーが関わる「孤立」が問題のようです。
困難を抱えたまま「助けを求めない」のは、「助けを求められない」男性問題だ、ということもできます。そうなればここでは、「男らしさ」に関わるジェンダー理論を採用することもできるでしょう。
最近、石垣島に死に場所を求めて中高年の男性単身者が移住してくる、という話を、地元の訪問看護師さんたちから聞きました。
アパートを借り、年金生活をし、周囲と交わらず、地元に溶け込まないが、病気になれば医療保険を使い、要介護になれば介護保険を使うそうです。
家族はいない、いても知らせるなときっぱり。それでも死後の後始末は自分ではできませんから、死亡届から火葬、お骨の後始末まで、ケアマネさんや訪問看護師さんが善意で負担していますが、その数が例外と言えないほど増えてきて、困っているとのこと。
これなど自分で選んだ在宅死、しかも行政のサポートを受けて早期発見の手当をしたうえの周到な孤立死ですから、ご本人にとっては本望かもしれません。
もし死後の後始末を業者が有償で引き受けるしくみがあれば、自治体には税収も発生します。
いっそのこと、ここまでお世話になった自治体に、わずかな資産でも遺贈してもらえば、不謹慎ですが、天国に近い「南の島であの世へ旅立とう」という、新しい「看取りビジネス」が成立するかもしれません。
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学生の彼女は、当時、17歳だったが、山奥の村に行かされた。住まいは、恐ろしい家だった。前の家主は自殺している。首つりしたロープが残っていた。そこを診療所とした。
もうひとつ棺桶のある家も貸してもらえた。棺桶は二つ置いてあり、一つは薬の倉庫とした。一つは、自分が休むベッドにした。
農村での活動は2年間だったが、若いときの体験が生涯の宝となっている。いまの中国のリーダーたちもみな下放運動を体験した人たちだという。
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下放運動とは、文化大革命のとき、毛沢東の指導によって行われた下放運動(上山下郷運動)のこと。農村支援の名目のもとに約1,600万の中学卒業生が農村や辺境に追放されたことをいう。
農村で肉体労働を行うことを通じて思想改造をすること、青年が民主化、修正主義に向かうのを防止する目的があった。(やがて、青年たちは後の天安門事件に発展していくのだが)
東京女子医大でMRI(磁気共鳴画像)を受けたことがある。中国の李先生(女医)が、段取りしてくれた。この方は、博士号を日本で取得している医師である。
彼女は、下放運動で辺境の農村に行かされている。そのときの体験を、いろいろお話を伺ったのであった。12年前のことだが。
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彼女と、孔子や老子、唐詩なとについて話をしたが、ほとんど通じなかった。中国において、そういった文化的な伝統がまったく途切れていることを知った。
一方で台湾の友人と親しく付き合ったことがある。彼女とは、諸子百家、唐詩の五言絶句、七言律詩などをベースに話が盛り上がった。
たとえば、王之渙の詩「白日 山に依って盡き 黄河 海に入って流る」とぼくが書けば、彼女は「千里の目を 窮めんと欲して更に上る 一層の樓」と達筆で書く。そうして遊んだことがあった。台湾は、中国の歴史と伝統を継承し、漢字もそのまま継承している。
一方、中国共産党のありようは、中国三年の歴史と伝統を断絶させて成立した。漢字も簡体字にしてしまった。なんともも、もったいない。
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しかし、中国人はとても優秀である。現在の中国のIT化やフィンテック、高度知識産業の発展はものすごい勢いだ。日本は遥かに後塵を配している。
たとえば、『タイムズ・ハーヤー・エデュケーション』「世界大学ランキング2018」によると、上位200校に入った大学は、中国(香港を除く)が7校。中国のトップは北京大学で、世界ランキングで7位、2番の清華大学が30位。
日本でトップ200に入ったのは、東京大学、京都大学の2大学のみ。東京大学が46位、京都大学は74位という。
日本は、やがて中国の後塵を拝しつづけることになるのか。アメリカの傘下にあって、中国に対抗しようとするのか。長い目で見れば、中国の経済圏に属するすることになるのだろううか。
そこにいない人の悪口を言う。批判する。そのことで喜ぶようなところが人にはある。ぼくにも、もちろんある。
悪口や批判でなくても、「あのひとのせいで、こんな目に遭った。困っている」とか、自分が被害者となってボヤいたりするのも、そのたぐいかもしれない。
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どうして、人の悪口や批判が好きなのかなあ、とみてみる。
まず、「嫌な人だなあ」とか、「違和感があるなあ」と日頃、不満に感じていたりする。そのことを他人が共感すると「やっぱりそうか、そうなんだ」と安心するってことがある。
そもそも、悪口とかウワサが好きな人というのがいる。そこには、ヘンな正義感、あるいはやっかみや妬みが入っていたりする。人を貶めることで、「自己の重要感」を満たしたいという心理もあるかもしれない。
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まあしかし、そこにいない人の悪口や批判、ボヤきは、やめたほうがいいなあと感じる。いつか必ず、その人の耳に入るから。
それも、人から人へ口伝(づ)てなので、いろいろと危険だ。不正確であり、事実と違っていたり、枉(ま)げられていたり、それが独り歩きする。そこに、悪いイメージがくっついていく。
それを聞かされたほうは、けっしていい気分じゃない。悪意となって、種火が残る。発した人と距離を置きだす。協力しなくなる。あるいは、陰口、悪口の応酬となったりする。
まあ、こういったことは、自分が被害者だったり加害者だったりするわけだ。
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で、結論。
そこにいない人の悪口、陰口、批判、噂話は言わないようにしたい。もしも聞いたら、そこを離れたほうがいい。
悪口や陰口は、発したその人自身に、いつか還ることになる。これはひとつの法則。
自分が、悪口や陰口を言われたとしたら、発した人に還るからと思えばいい。悪口を言われるのは、そもそも自分に「人徳」がないから、と思うしかない。
自分で悪口や陰口を言いたい時、それは自分の「徳」をすり減らすことになると戒める。
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補足:夫婦間で、あのひとはどうなのかなあと、意識確認のために語り合うのは、いいんじゃないかと思う。結婚生活の有意義性は、そうした意識の確認、語って聞くことのカタルシス、共感しあう安心にあるかもしれない。
サラリーマン時代は、よく仲間と、赤ちょうちんで会社の批判、上司の悪口を言い合っては、喜ぶことがあった。それはひとつのエネルギーの源になったりしていた。フリーになってからは、悪口を言う組織も上司もなくなったけれど。
手を尽くし、一つひとつ問題をクリアした。「さあ見通しがたった。これから」という時に、つぶれるってことがある。そのたびに、学びにはなる。けれども、学んでばかりでカタチにならない人生も困る。
つぶれることの一つは「ボタンのかけ違え」だ。しっかりとボタンをかけていた(と思っていた)。さて、かけ終わった。じつは、一番目のボタンがかかっていなかった。あるいは、ズレていた(インドネシアのハラール食品加工場の件など、まさに)。
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今回のケースは、ある事業所の建物、設備、スタッフ「居抜き」で事業譲渡をしてもらう。いわばM&Aのようなもの。その事業は、「けっして儲かりはしないけれども、損はしない」。「やりようによっては、安定収益源になるかも」とみた。
友人とタッグを組んで、この数ヶ月、考えを尽くしてきた。事業主も合意した。法人も設立した。「さあ、稼働しよう。遅くとも秋からは」という矢先であった。
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ところが、一番目のボタンが外れていた。
なぜか。地主が承諾しないのだ。事業所は借地である。建屋の譲渡が決まって、「さあ、名義変更」という段になった。地主は、見知った人でもあり、よく立ち話もする。なので、「ああ、いいよ」と簡単に承諾してくれるものと思っていた。
電話で気軽に「新しく事業を継承するので、これから友人とお訪ねしたい」と言うと、「唐突になんだ!いまの事業主(土地の賃借人)から一言も挨拶がないぞ。いきなり名義変更するというのは、どういうことだ」とお怒りであった。
地主の立場にしてみると、自分の重要度を低く見られた。足元を見られた。なめられた、という思いがあるのかもしれない。そこを甘く見ていた。軽く見ていた。
またぼくは、フランクに話をしてしまうので、それが相手の感情を逆なでしたかもしれない。
地主の承諾がなければ、建物(地上権)の所有権移転はできない(民法612条 大意)。地主の承諾なくして譲渡した場合、地主は賃貸借契約を解除することができるのだ。
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タッグを組む友人は、「名義変更を認めないのは、地主の越権行為だ。裁判所に申し立て、裁判所に地主に代わって名義変更の許可をしてもらう」という戦法をとろうとした。
「借地権譲渡承諾に代わる許可」である。「裁判所は、借地権者の申立てにより、借地権設定者の承諾に代わる許可を与えることができる」(借地借家法19条)。
賃料を下げよと要求もしていない。現状のまま事業継承するわけだ。地主や地域に迷惑をかけることもない。なので、裁判所による許可はとれるはず。
まずは地主に「内容証明」を出す。戦闘モードに入ろうという動きになった。
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いや待てよ。裁判所の許可がとれるのは間違いない。しかし、地主と争うと、感情のシコリが生まれる。後々、厄介なことになりそうだ。なにしろ過疎地の山里のことである。もう少し様子を見たらどうか。それに、裁判に関わると、半年はかかる。……そういうことを、友人に伝えた。
すると事態は一転。友人は「そのようなブレがあるようでは、 これからうまくいかない。じゃあ、この件は白紙に戻す」ということになった。
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ということで、友人は離れて、池谷のプロジェクトとして、地主と交渉し懐柔することにした。裁判所の申立はしないほうがよいだろう。
何事もそうだが、「ピンチはチャンス」。起きてきた厄介なこと、 うまくいかないことは、次の飛躍へのチャンスになりうる。ということで、次の戦略に歩みを進めている。いま渦中。