過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「言葉と光」ということを日々、感じる

「光を、光をください」というのが、言葉で言えぬ私の魂の叫びでした。

私は近づく足音を感じました。母だと思って手を差し伸べました。誰かがその手を受け取り、私を抱き上げ、腕の中にきつく引き寄せました

……子育てしていると、「言葉と光」ということを日々、感じる。「ヘレン・ケラー自伝」を再読してみた。ここを読むと、いつも涙が溢れそうになる。
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私がおぼえている生涯のもっとも重要な日、それは私の先生、アン・マンスフィールドサリヴァンがこられた日です。

その日が結びつける二つの生活の計り知れない相違を考えるとき、私の心は驚異に満たされます。それは一八八七年三月三日、あと三か月で七歳になろうというときでした。

その重大な日の午後、私は待ち遠しく黙ってポーチに立っていました。母の合図や、家で人があわただしく動きまわっている様子から、なにか変ったことが起こりそうだということはうすうす想像がつきましたので、私は戸口に行き、階段のところで待っていたのです。

午後の太陽は、ポーチをおおっているスイカズラの厚い茂みを通って、見上げる私の顔にさし、手はほとんど無意識に温和な南国の春を迎えて萌え出したばかりのなつかしい葉や笛をさわっていました。

私は、どんな思いがけない不思議な未来が待ちもうけているのかも知らなかったのです。憤懣(ふんまん)と悲痛が何週間もの間、絶えず私を餌食にし、そのはげしい争いのあとに深い倦怠がきていました。

皆さんは海で濃い霧に遭われたことがありますか。まるで手でさわれるような白い暗闇に閉じこめられ、測鉛を使って岸の方に不安と緊張の中に手さぐりで進んでゆく大きな船の上で、胸をどきどきさせながら、なにかが起こるのを待っておられたことがありますか。

教育がはじまる前の私は、その船のようなものでした。ただ私には羅針盤も測鉛もなく、どのくらい近いところに港があるのかを知るすべがありません。

「光を、光をください」というのが、言葉で言えぬ私の魂の叫びであり、ちょうどそのときに愛の光が私を照らしたのでした。

私は近づく足音を感じました。母だと思って手を差し伸べました。誰かがその手を受け取り、私を抱き上げ、腕の中にきつく引き寄せました。

その方こそ、私にすべてのことを明らかにしてくださり、他のいかなることにもまして、私を愛してくださることになったお方だったのです。(ヘレン・ケラー自伝:川西進訳 ぶどう社)

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