過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

人の悪口を言う。批判する。そのことで喜ぶひとについて。

そこにいない人の悪口を言う。批判する。そのことで喜ぶようなところが人にはある。ぼくにも、もちろんある。
悪口や批判でなくても、「あのひとのせいで、こんな目に遭った。困っている」とか、自分が被害者となってボヤいたりするのも、そのたぐいかもしれない。
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どうして、人の悪口や批判が好きなのかなあ、とみてみる。
まず、「嫌な人だなあ」とか、「違和感があるなあ」と日頃、不満に感じていたりする。そのことを他人が共感すると「やっぱりそうか、そうなんだ」と安心するってことがある。
そもそも、悪口とかウワサが好きな人というのがいる。そこには、ヘンな正義感、あるいはやっかみや妬みが入っていたりする。人を貶めることで、「自己の重要感」を満たしたいという心理もあるかもしれない。
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まあしかし、そこにいない人の悪口や批判、ボヤきは、やめたほうがいいなあと感じる。いつか必ず、その人の耳に入るから。
それも、人から人へ口伝(づ)てなので、いろいろと危険だ。不正確であり、事実と違っていたり、枉(ま)げられていたり、それが独り歩きする。そこに、悪いイメージがくっついていく。
それを聞かされたほうは、けっしていい気分じゃない。悪意となって、種火が残る。発した人と距離を置きだす。協力しなくなる。あるいは、陰口、悪口の応酬となったりする。
まあ、こういったことは、自分が被害者だったり加害者だったりするわけだ。
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で、結論。
そこにいない人の悪口、陰口、批判、噂話は言わないようにしたい。もしも聞いたら、そこを離れたほうがいい。
悪口や陰口は、発したその人自身に、いつか還ることになる。これはひとつの法則。
自分が、悪口や陰口を言われたとしたら、発した人に還るからと思えばいい。悪口を言われるのは、そもそも自分に「人徳」がないから、と思うしかない。
自分で悪口や陰口を言いたい時、それは自分の「徳」をすり減らすことになると戒める。
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補足:夫婦間で、あのひとはどうなのかなあと、意識確認のために語り合うのは、いいんじゃないかと思う。結婚生活の有意義性は、そうした意識の確認、語って聞くことのカタルシス、共感しあう安心にあるかもしれない。
サラリーマン時代は、よく仲間と、赤ちょうちんで会社の批判、上司の悪口を言い合っては、喜ぶことがあった。それはひとつのエネルギーの源になったりしていた。フリーになってからは、悪口を言う組織も上司もなくなったけれど。