過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

批判するということについて

その方は、ある団体から被害にあったようで、怒り心頭。批判と不満を聞かされた。こちらは、うんうんと聞くのみ。聞くはあんまり面白くないけどね。

そもそも期待しているから怒りが出てくる。期待もアテもなければ、ああそういうことだね、それでおしまい。冬は寒い、夏は暑い。それで、おしまい。そういうものだから。どうしようもない。

こうであるべきだ、こうでなくちゃならないという観念が強いので、いろいろ不平や不満や怒りも出てくる。そう伝えた。

さて、一般的に、他に対して批判をすること。不満をぶつけること。政治に対して文句を言うこと。あるいは体制とか国に対して、批判をすることについて、考察してみた。

当時者に言わないで、仲間内で文句を言い合っても、現実を変化させられない。それは、単なる不平不満の発散でしかない。

で、意を決してこちらから批判をぶつけたとしよう。けれども、相手はなんら痛痒を感じない。なにしろこちらには権威も権力もない。だから、ああうるさいな、わずらわしいなでおしまい。

本当に相手を変えたいのならば、ちゃんとした形で文書にして投稿するなり、連絡を取るなり、ほんの少しでも現実を動かしていくことが大切と思う。

ところが多くの人はそれをしない。それはたいへんだから。ゆえに単に文句を言い、不平を言いたい。ヘイトをあらわにしたい。

悪口を言っていたりすると、ネガティブなエネルギーを引き寄せていく。それって不満の噴出でしかない。いわば、周囲に毒を撒き散らすのとおんなじ。それは自らを苦しめ、自らを追い込み、自らの運勢を落としていくことになる。

そのあたりは、じつは習気(じっけ)というか、生命の傾向性というものがあって、抜き差しがたい。その人の歩んできた道のりがある。なので、それを指摘するとなると、相手の怒りを買うかもしれない。つかれる。だから放置しておけばいいということになる。

けれども、そのような悪口を聞かされ、相談を受けるというのは、縁があるということでもある。その人は、自分の表れと見ることができる。その人に、ちゃんと関わることで、自分自身に対する癒し、過去カルマの解消につながると見方も出できる。

すべてが自分自身、自分の姿である。その人自身がその姿を通して見せてくれている、と考えることもできる。

さらには、その人を大切にするという事は、自分自身を癒すことにつながる。自分自身のカルマを解消し完了することにつながる、のかもしれない。

そういった思いで人に接していく。物事に対応していく。そしていいことも、ゆくないこともありがとう。感謝としていく。すべては自分が引き寄せたことであ。自分が自分に与えた問題集と思って生きていく。 

それがいちばんの日常の暮らしの実践行。祈りよりも念じることよりも、お経をよむよりも、座禅よりも。

そのことは、小さい子供から病気になって寝たきりの人まで、いつでもどこでも実践できることである。

そのことによって人生がどう変わっていくのか。それは実践してみればわかるのではないかと思う。

こうして、実験し工夫して試していって、わが身体で実感し、それを言葉で表現してゆく。そのことを通して、また多くの人とのやりとりが生まれて、学びが深くなっていく。

※こちらはiPhoneの音声入力で書いた。95%の精度。わんこの散歩中、わんこを講演の東屋につなぎとめておいて、周りを歩きながらの音声入力文字変換。ここまでいける。ギリシアの逍遥学派みたいな気分だ。内容はともあれ、iPhoneってたいしたものだ。