過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

死後の世界のこと

自分はいつかは死ぬ。そして死後のことは、わからない。想像したりするだけである。

臨死体験者の話は、直接に数名から聞いたことがある。

いわく。光の世界にいた、たいへん満ち足りた世界にいた、自分が横たわっているところを上から見ていた、などとはよく聞いた。また、まさに死ぬという瞬間、突然、黒い雲がモクモクとあらわれてきて、まったく光が見えなかった、このままでは地獄だと思った、という人の体験も聞いた。

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あるいは、「死者の存在」を感知する人もいる。こういう人には、何人にも会った。故人はいまこんな状態だよ、先祖はこうだよ。そんなことを聞いた。

しかしそれが、その人の強い思い込みなのか、適当なことを言っているのか、わからない。ただ、いくつか符合すること、そうかもしれないという事象があったりすると、霊的な世界というものは、あるような気がしてくる。

知人の坊さんは、2,000件以上の葬儀体験がある。800体目くらいから、なんとなく「死者の存在」を感知するようになった。どうも、「その人」が近くにいるようだ、と。

そして、一人ひとりの事例(死者がなにか訴えたいこと、印象)をカードにして書き残していった。それが、自分の思い込みかどうか、遺族と対話して、確認していった。多くは、ほぼ故人の人格をあらわしていようだという認識を、彼は得た。

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しかし、これらはみんな他人の経験であり、自分の体験じゃない。

いったい「死後」に自分がいるのか、あるのか。自分がいるとして、その場は霊界とか浄土とか天国なのか、地獄なのか。いやもう、まったくの無の世界なのか。

あると思っている人にだけ、あるのか。ないと思っていない人には、ないのか。

そうしてまた人間として、この世に転生するのか。しないのか。

これらは、人知の及ぶ世界ではない。これはまったく宗教的な世界だ。

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死とは、肉体を離れるということ。土に還るということ。かつての時代では、土葬なので分解されて多様な生き物の糧となった。いまは火葬されて、遺骨だけが、お墓の下の骨壷にずっとあるわけだが。

自分の本性(魂というのか、我というのか、エネルギーの本体)は、存続するような気はしないでもない。あるいは、大いなるものに、融合してしまうのか。

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去ったとしても、人それぞれの生前(あるいは無限の過去世)の「カルマ」というものが、残るのだろうか。

カルマとは、古代インドの概念で、仏教にも取り入れらた。「業」(ごう)と訳される。自分の思ったこと、話したこと、相手になしたこと、行動したことの集積とも言える。それらが原因となって、相応の結果が現れる。まあ、それがカルマの法則(因果応報)ということでもある。

じゃあ、清らかな思いを抱いて、人のために奉仕し、みんなから喜ばれたような人は、相応のいい世界にいくのか。悪い思いをいだき、悪い事をした人は、相応の悪い世界に行くのか。

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そうともいえるし、そうじゃないかもしれない。

その人の行為も、思いも、全く関係なく、安楽な世界に行くのかもしれない。悪人こそが救われると説く宗派もある。

いずれにしても、人は必ず死ぬ。そして、いま自分がいるのは、いまここの瞬間だけということ。瞬間瞬間のところに自分がいる。そこにおいてこそが、自分の世界である。

そして、この瞬間は二度とやってこない。この人生は、この一度限りである。そこだけは、わかるのだが。いや、わかってないので、あれこれと妄想しているとも言えるか。