過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「鉄腕アトム」手塚治虫と遠藤周作

GoogleKeepに入れて「画像のテキストを抽出」を選択すると、1秒でテキストにしてくれる。この機能は、とても便利。

なお、たくさんのページの本などのテキスト化は、GoogleDocumentをつかうと、かなりの精度でテキストに変換してくれる。ネットからいただいた画像。
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火の鳥」生と死

ぼくは医学生時代、何度も人の死に立ち会った。
映画「赤ひげ」ではないが、死とのたたかいはなんと壮厳で神秘的なものだろう。
死を迎えたとき、その肉体のどこで、どのような機序がなされ、息たえたときに浮かぶ一種の法悦感は、なにを物語っているのだろうか?
死とはいったいなんだろう?
そして生命とは?
この単純でしかも重大な問題は、人類が有史以来とっくんで、いまだに解決されていないのだ。
ある人は宗教的にそれを解釈し、あるいは唯物論的に割り切ろうとする。

ある説によれば、霊魂は物質として存在し、肉体をはなれるときにはその重さだけ体重が減るという。
ふくざつな蛋白質――コロイドとよばれる状態には、疑似生命現象がみられ、ぎゃくにビールスの中には、生命があるのかどうかも疑わしいものがある。

生命が物質なら、それらにも霊魂があるのだろうか?
人間は何万年も、あした生きるためにきょうを生きてきた。あしたへの不安は死への不安であり、夜の恐怖は死後の常闇の世界の恐怖とつながっていた。人間の歴史のあらゆるときに、生きるためのたたかいがなされ、宗教や思想や文明のあらゆるものが、生きるためのエネルギーにむすびついて進歩した。

火の鳥」は、生と死の問題をテーマにしたドラマだ。古代から未来へ、えんえんとつづく「火の鳥」永遠の生命とのたたかいは、人類にとって宿命のようなものなのだ。
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アトムと私
遠藤周作

どこの家庭でも同じだろうが、私の家でも夕食どき、幼稚舎に行っている坊主と私とのにテレビの争奪戦がある。彼が見たいものは私にはあほらしいし、私の見たいものは彼が首をふるのだ。

息子は子どもだし、私は大人だから、けっきょく我慢させられるのはこっちで、そのためずいぶん、子どもの番組につき合わされた。「三馬鹿大将」や「チビッ子ギャング」に「名ラッシー」など、いやでもほとんど見ている。そのうち、いやいやでなく、こっちもたのしみながら見ている番組があるのに気がついた。

それは『鉄腕アトム』である。テレビで『鉄腕アトム』を見てから、ときどき、ひまなとき、息子の部屋にしのび入って、彼の本箱から、この本をさがすようになった。私はだいたい、息子にはどんな漫画本でも文句なく与える主義である。

よく漫画本を子どもがよんで困るという母親があり、そのご心配もわからぬではないか、つまらぬ、かびのはえたような偉人伝ばかりを与えることによって、子どもに本とはおもしろくないものだという考えをうえつけるのは、角をため牛を殺すことになる。

本とはおもしろいもの、本とは自分の生活に結びついたもの、という気持ちを知らず知らずのうちに与えるほうが、将来への感情教育に有益だと私は思うから、わが家では漫画本もどんどんかうことにしている次第だ。

だから、息子の本箱は、ほとんど漫画である。その漫画本の中でも、いちばん私がひきずりだすのは「鉄腕アトム」である。
理由は単純だ。おもしろいからである。そして、画のなかの空想性がいちばん、のびのびしているからでもある。

息子のベッドにひっくりかえって、『鉄腕アトム』をよんでいる自分の格好はあまり、ほめたものでもないと思うが、ときどき、ひょっとすると、も私と同じように、ひそかに子どもの部屋からこの本をかりだして熱読しているパパやママが意外に多いのではないかと考えては、自己弁解の代わりにしているわけだ。