過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

お寺に通いだしたらピタッと妄想が止まったという

義母は、近ごろ妄想気味であった。家においてあったモノがよく盗られる。あれがない、これがない。毎夜、天井から泥棒が忍び込んでくる。

そういう話を何度もする。義父は、そんな話を毎日聞かされるのでうんざりしていた。

精神科に見てもらうか、別に家を借りようか。さてどうしたものか、と妻は悩んでいた。
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義母の家の近くにお寺がある。法華系(八品派の流れ 本門佛立宗)で、住職は、短歌や俳句、川柳、都々逸に造詣が深い。仏教学も深い。息子の副住職はパーマカルチャー、農業の実践もしている。

まちなかにいくときは、時々お訪ねしては教学や和歌などを教えてもらっている。ひたすらお題目を唱えられる道場としても、心休まるありがたいお寺である。

そのお寺を義母に紹介したことがあった。気が休まるよ。近くなので散歩のときに寄ればいい、と。ただ、お寺というのは、縁次第。いちど紹介したが、つながらなかった。

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ところが先週から何かのきっかけで、義母がお寺に通いだしたという。毎朝、参拝している。長いときには1時間以上のお題目を唱えるという。

お寺は、みんなで食事を作ったり、農作業もする。お彼岸法要のための食事づくりも、一緒にしたという。よかった。安心できる居場所ができた。

そして、不思議なことだが、義母が参拝をした日から、なにか盗まれたというような妄想がピタッと止まったという。

いわば「初信の功徳」のようなこと。お寺としても、これまでおんなじ檀家のメンバーであったが、新しい方が参加してくれると、マンネリ打破になってありがたいと言ってくれた。
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きょう行くところがない、やることがない。役割がない。それは、人生ではつらいこと。

気安く立ち話する相手もいない、分かち合う人がいないとなると、どんどんと後ろ向き思考が走り出す。おなじような回路をグルグルまわる。轍から脱出できない。エネルギーは停滞して、妄想に陥りやすい。

下手の考え休むに似たり。考えないことが、とっても大事。考えるほどに、ろくなことにはならない。考えることで、エネルギーが逃げ、漏れていく。やがて心をガードしてくれる守護霊的なもの、オーラが弱くなっていく。

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そこへいくと、念仏とかお題目というのはいい。ひたすら一つの言葉を唱え続ける。

それは、思考の停止になる。余計な考えをしなくなる。心身のバランスが保たれたり、エネルギー的な充実が生まれる。

近くにそういう実践のできる場があるのは、とてもありがたいこと。ひとついい方向に動き出したような気がする。

お寺というものは、人々が気楽に寄れる場が望ましい。寄り添ってくれて、気にかけてくれて、仲間がいる。そしてなにより仏道の実践ができること。法要や法事の場ではなくて、まさに生きている人の役に立つのが役割と思う。