過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

思えばいろいろやってきたなぁ。いつまで続くこの登攀の道。

転職しようという人にアドバイスで書き込んでみたが、思えばいろいろやってきたなぁ。いつまで続くこの登攀の道。
最初の生き方は「寄らば大樹の陰」。その間、ここがいやなら次と、一部場企業を3つ転職。ドイツやイギリスを担当したり、株主総会の担当したりしたが、サラリーマン時代は、ぬくぬくして不満たらたら、使い物にならない社員だった。上司は困ったと思うよ。
で、サラリーマンは、まったく向かないことがわかった。で、後先考えず、サラリーマンやめたのが37歳。
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やめてはみたものの家賃も払えず、仕事しなくちゃならない。駿台学園に採用されて、台湾での日本語教師の道も考えたよ。真珠の養殖の仕事しないかという話もあった。
お寺から新聞作ってくれと言われて、あてもなくフリーの編集に進んだのが、42歳。そこから、大学の新聞作り、都庁の労働新聞作りまでやった。
お寺の檀家さん向けの寄付依頼の模範文例集づくりから、美輪明宏さんをたずねてインタビューして本作りとか、飯田史彦さんの大学に行ってインタビュー取材とか、千日回峰行のお坊さんの取材とか面白い出会いが沢山あった。インドのカレーショップで談志師匠の取材もあったが、忙しくて断ってしまったのが心残り。
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そのうち、42歳は厄年。厄ではなくて、「役に立つ」ことをしなくちゃと、ワークショップを主催したのが、42歳。ヴィパッサナー瞑想、アフリカンドラム、曼荼羅アート、気功にカバラとなんでもあり。貴重な出会いがたくさんあった。
でも、オウム真理教と間違えられて、苦難。ワークショップはやめた。
その間、インドを旅すること13回。インドのアシュラムやハワイのワークショップまで企画した。こちらも、突然のひらめきだった。危ない綱渡りだけど、なんとかなるものだった。
そうして、これまたなんの知識もなく、医学書作りが45歳。京都大学レベルの教科書にもなったよ(執筆は医者、ぼくは編集と版下制作)。葬式2,000件やった坊さんの本を作ったら、なんと16万部も売れた。
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やがて、東京暮らしから突然の田舎暮らしが57歳。NPO法人立ち上げ61歳。田んぼ始めたのが64歳。結婚して子供が生まれたのが65歳。神社・寺・教会カフェを企画したり。インドネシアハラールの食品加工場探しのサポート。古家の解体の親方。そうして、このデイサービス事業はじめたのが67歳。いまに至る。
おもえば先の見えないチャレンジの連続。要するに「こらえ性」がないってことかも。ま、これからも、そんなことばかり続くかも。ゆっくり休むのは、死んだ後でいい。