自由に訪ねて参拝できる。祈ることができる。瞑想ができる。そのことでお金もかからない。
本来、お寺というものは、そういう場だったと思う。けれども、なかなか自由には訪ねにくいのが実情だ。
理由のひとつには、お寺が「寺族の暮らしの場」になっている。「お坊さんの家」なのだ、家庭となっているからだ。
なので、突然、知らない人が訪ねてくると「なにか御用ですか?」ということになる。「参拝したいのですが」というと、「あんた、だれ?」みたいに、迷惑そうな顔をされる。それはよく体験した。
もうひとつは、防犯の問題もある。有象無象が自由に立ち入ると、事故があったりする。盗難や火事もこわい。
先日は「檀家以外は立入禁止」と断られた。立て看板にも書いてあった。きょうは、ご祈祷してもらう人以外ダメ、と断られた。
そこは、真言宗の古刹。1200年余の歴史があるお寺だ。本堂の外からは、本尊のお姿はよく見えない。仏像の近くで拝みたい。「参拝したいので上がってもいいですか」と聞いてみた。
するとお寺のスタッフが、間髪入れずに「ダメです! ご祈祷の人だけです」という厳しい声。
ご祈祷ということで、しかるべきお布施(3千円〜)しないと本堂には上がれない。料金表がちゃんと掲げてある。
本堂は、厄払いとか安産祈願とか、合格祈願とか、坊さんに祈祷してもらう人だけが許される。お坊さんは、そのたびに、お経をよんで太鼓を叩いて真言を唱える。
まあ、お寺も維持費を考えたら、やはりタダで参拝させる訳にはいかない。そして、防犯上の問題もある。
ところでぼくはこれまで、インドを13回旅をしている。インドは、いたるところにヒンドゥーの寺がある。
そこは、だれでも自由に参拝できる。祈りのエネルギーに満ちている。お金も取られない。まあ、プジャリ(祭祀をするバラモン)になにか祈祷をお願いする時には、お布施はすることになると思うが。
お寺の社会的な意義とは、なんなのだろうか。お坊さんの役目とは。そこも考えてみたい。