過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

思いきり泣けるお寺というのがいいね

「神社・寺カフェ」を企画しているところ。今年で二回目。で、これがいろいろむつかしい。

お寺というのは、かならずしもお客さんが来ることを望んでいない。ひとりひとり相手しなくてもよい、ただ参拝してくれて、お賽銭を入れてくれるならオッケー。ふらーっとやってこられても、人手がないうえに時間がとられて困る、というお寺。

そちらでお客さんを集めてくれて、バスを仕立ててやってきてくれるの? 受付から段取りから全部やってくれて、お寺としては本堂を貸すだけならいいよ。まあ、お経くらいはよんでもいいけど、というお寺。

観光でにぎわっているお寺となると、ただでさえ参拝客が多いのだから、そのうえ相手するのがたいへん。この企画の参拝者と、いつもの参拝者をどうやって区別したらいいいの? ともいわれる。法事が忙しくて、相手するゆとりなんかないよ、というお寺。

この企画は、お寺を訪ねるというよりも、お坊さんや神主に会いに来るのだから、ちゃんとおもてなし、話をしてくださいね、ということで企画を持っていく。ので、なかなか寺社としては二の足を踏むわけだ。

とくに見てもらうものもないし、これといった特徴もないし、法話も苦手だし、困るなあというお寺もある。でもお寺には、伝統の教えと行法があるのだから、それを伝えてくださいよ、と。禅宗だったら、坐禅。浄土宗だったら、念仏。日蓮宗なら、唱題行。そうして、お経のよみかたをおしえたり。いろいろあるわけだ。

わざわざお寺に来てくれてありがたい。檀家さん以外で、お寺を求めて、教えを求めてくれるひとがいるのは、ありがたい。精一杯、お相手させてもらいますよ。……そういうお寺が嬉しい。

たとえば、正晨寺(しょうしんじ)さん。前回の寺カフェをきっかけとして1か月、お寺に通われた方がいた。奥さんが脳こうそくで倒れて、旦那さんはつらくて、かなしくて行き場がない。そのとき、寺カフェで訪れた正晨寺さんを思い出した。そして、かよいはじめた。

本堂でいつも泣いていたという。つらくつらくて、泣く場所をもとめていた。そうして、住職はその方にちゃんと寄り添ってくださった。そういうお寺さんがありがたい。思いきり泣けるお寺というのがいいね。