先日、密教のお寺を訪ねて、お坊さんと語りあった。じつはいま高野山のえらいお坊さんの本の企画をしているので、それの考えをまとめるためでもあった。
密教に対して、聞きたいところは2つ。「密教における祈祷の効果」と「密教は自然破壊の歯止めになりうるのか」と。
まず、「祈祷の効果」について。
密教のワザ・チカラを示すものとして、阿闍梨(あじゃり)による加持祈祷、護摩を焚くという行法がある。自らのためにそれ行う場合(自利)と、人々のために行う場合(利他)がある。加持祈祷を専門とする寺院では、参拝者の病気平癒、学業増進、願行成就を祈念する。
なかでも、病気平癒ということには、どれほどの効果かあるものなんだろうか。とくに、メンタル面での病を抱えている人に「効果」があるものなんだろうか。
お坊さんに祈ってもらった、ここの観音様・お不動様は功徳がある、さぞや利益があるに違いない。そんな安心感が病の治療に一役買うという程度と思っているのだが。いわばプラセボ効果と。
しかし、「祈祷そのものの効果」というものはあるのかもしれない。それは、どうなんだろう。
語り合っていく中でのひとつの結論。
いわば「低級霊」「地縛霊」みたいなものに支配されて、どうしようもない人も、たまに参拝する。
そういう人に対し加持祈祷というのは、たしかに効果がある。低級霊はたしかに去る、という。けれども、またふたたび、そういう霊に支配されてしまうことがある。
ので、やはり日々の生き方、心構え、生活習慣、そのあたりをきちんと指導していかなければ、いくら祈祷してもイタチごっこではないか、というところ。
ぼくなりの考え。まずお寺が、そこにいるだけで穏やかになって癒やされていくような場になっていること。お坊さんの明るさ、強靭さ、生き方というところ。
祈祷してもらうのもよいが、参拝者が自ら祈る、念じる、行ずるというところ。そこを指導するのがお坊さんの役割とも思う。