過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いつも着地点が見えない、わからない。

「発想も、スタートダッシュもいい。また凹んで立ち上がるときもいい。けれども、池谷さんはいつも着地点が見えない」
そのように先輩から言われた。
そうなんだ。いつも着地点がいつもみえないのだ。
着地点をきちっと定めずに行動している。あるいは、着地点がコロコロと変わる。あるいは、途中で変更したり諦めてしまう。
つねに、先が見えない、わからない。起きた時の縁にしたがっていく。あるいは、縁によって起きていくってことでもあるし。
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炭焼き窯づくりは、山林の中に変更した。5年前から空き家にしていた我が家の敷地(1300坪)だ。夏はジャングル状態。そこに、かつてつくって、使わずにいた炭焼窯をよみがえらせることにした。日々工夫し試行錯誤していくのも、たのしいことだ。
そこにある空き家は友人夫妻が滞在して、片付けながらきれいにしてくれている。きょうは、近隣の人も遊びに来てくれた。
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さて、どうなっていくか。
たとえば、森の幼稚園とか自主保育の場、フリースクールAirbnb、まちなかの人の自然体験の場にもなっていくのかもしれない。
いつも着地点が見えない、わからない。でもまあ、すこしずつ、ここも動き出したような。動きにしたがって、変化していく。

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石原慎太郎で思い出すこと

石原慎太郎で思い出すこと。
ぼくは12年間のサラリーマン人生をやめて、インドを放浪してたりして、やがて貯金も尽きていた。
さあどうして暮らしていこうか。
ともあれ、フリーランスのライターをやろうとしたのだった。なんの実績もないのに……。
そのとき、新聞の募集広告があった。訪ねたのはA編集プロダクション。語りおろしの仕事だった。いわば、ゴーストライター
美輪明宏石原慎太郎、どっちがいい?」と聞かれた。そのとき美輪さんのほうにしたのだった。
美輪さんのお宅を訪ねて、まるまる2日間の取材は、楽しかった。
このとき、石原慎太郎の仕事をしていたら、またちがう人生だったろうな。
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小谷喜美の「天の音楽」という本に惹かれて麻布にある霊友会の釈迦殿を訪ねたことがある。
信徒がものすごい速さで法華経の訓読をしていた。ちなみに、霊友会のひとつの支部が独立したのが立正佼成会霊友会立正佼成会は、本尊や唱え方など似ている。本尊も南無妙法蓮華経のたすきがけも。
小谷喜美は、いわば法華シャーマンで、通力というか霊能力、人を引きつける力、確信の力があったと思う。
そうして、小谷喜美と石原慎太郎が出会う。対談の本も出している。石原は霊友会を票田の一つとして大切にした。小谷喜美は、「石原慎太郎が、いつか必ず総理になる」と期待したのであった。

天理教春野教会を訪ねる

「ついでに寄ってみよう」というノリであちこち訪ねることがある。いま介護施設を運営しているので、なかなか外出できない。6つになる娘(あかり)もいて、日常の動きは制限される。
なので、ひとたび出かけると、「じゃあついでに寄ってみよう」という感じで訪ねることになる。
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一昨日は、施設に薪ストーブを入れようと思い立って、具体的に実践している家を訪ねた。100万円もするストーブではなくて、数万円。しかも自分で施工したもの。
「なるほど、これなら施設にも導入できそうだ」という感触を得る。薪はスギ・ヒノキならふんだんにあるし(もちろん広葉樹がいいのは当然だが)。
その方はクリスチャン。これまでの苦闘の体験から、神に導かれた、救われたという体験を聞かせてもらう。体験から出てきた言葉には、説得力がある。
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さて、その近くに天理教の教会がある。「じゃあ、ついでに訪ねてみよう」ということになる。
妻と康ちゃんと三人で訪ねた。天理教の春野教会だ。
これまで数度訪ねているが、いつも安定していい感じ。なにより神殿が整然としてすがすがしい。わが暮らしはごちゃごちゃ。なので、そこはすごく違いを感じる。
奥様とお話をしていると、教会長も来てくださった。親様(天理教の教主 中山みき)の十二下りという歌のこと、三か月の修練コースのこと、お地場のことなど、いろいろ教えてもらう。
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教義がどうのではない。この落ち着いた感じ、整然として自然な感じ、穏やかな感じ。じつに感心したのであった。
仕事としても個人的な興味としても、仏教、新宗教、外国の宗教など探求している。宗教は外からは眺めない。内側から体験として探求する。
その意味でも、天理教は、安定した落ち着きを感じて、暮らしの中の生き方の中での安らぎを感じたのであった。

ブッダの教え 、実践というところを基軸にして探求していこう

仏教とは「ブッダの教え」のことだ。ブッダとは「目覚めた人」を意味する。わたしたちは、眠っている。そうして、目覚めた人がブッダだ。真理に目覚めたともいえる。
ブッダが実在していたかどうか。すなわちゴータマ・シッダールタが歴史的にいたのかどうか。それは、考古学的には立証されている。インドに仏舎利も存在する。
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ゴータマが悟っていたのかどうか。ゴータマがはたしてブッダであったのかどうか。それは、だれにもわからないと思う。
だが、ゴータマを悟った人として崇め、その教えを無謬なものとして継承してきたのが仏教である。
ブッダの教えを継承した教団はたしかに存在した。そして、教えを政治理念として活かそうとした王も実在した(マウリア朝のアショカ王)。
王が建てたブッダを顕彰する碑はいくつか現存している。その獅子柱塔は、インドの紋章になっている。ちなみに、インドの国旗のマークは、ブッダの転法輪を示している。
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仏教の教えは歴史も古く(2700年余?)、伝播も広い。(インド〜東南アジア、中国〜朝鮮〜日本、チベットなど)。時空の広がりからみて、その過程で、質的に変容していくのは当然だろう。
ブッダの直説という叙述の経典の数は膨大だ(八万法蔵と言われる)。しかも、経典間に内容が矛盾しているものもあり、どれがブッダの真実の教えなのか、わかりにくい。
ちなみに、キリスト教の場合は、聖典は「新・旧約聖書」としてまとめられて一冊だ。新約聖書でも、マタイ、マルコ、ルカなどそれぞれに大きな矛盾がない(ヨハネはすこし色彩が異なるが)。
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ブッダの教えは、はじめは弟子たちによって口承で伝えられた。文字化されたのは、ブッダの滅後、100年〜150年とされる。大乗経典や密教などの成立は、滅後数百年である。こうしてみると、ひとつの巨大な文芸創作運動のうねりの感がする。
ブッダの教えと大きく異なることはない、と思われるのが、原始経典(ダンマパダ、スッタニパータ、その他パーリ語によるもの)。これらのテキスト間には、大きな矛盾はみられない。「苦・無常・無我」という三法印を外していない。
ところが、大乗経典になると、様相を異にする。苦・無常・無我の教えが、常楽我浄というように、永遠なる実在が説かれだす。ブッダも人格的な存在から、空想的な超越的な存在として描かれるようになる。
たとえば、無始無終の久遠仏(永遠仏)、阿弥陀や観音や薬師如来など、何千、何万という無限のブッダが登場してくる。さらには、大日如来毘盧遮那仏という法身仏(宇宙仏)も現れる。
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さらには中国にいたって、仏教は「鎮護国家」の教えとして受け入れられてゆく。それが日本にも伝えられていく。効き目のある呪術的なものに変容していったのだ。
そうして、鎌倉時代には、法然親鸞道元日蓮など、独自の飛躍した教え、要点を深掘りした教え、個の救済に力点をおいたもの、民衆が実践しやすい修行等に変容していく。
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ともあれ、ブッダが実在したとしても、その方が悟っていたのかどうか、誰にもわからない。しかし、仏教とはブッダが悟っていたということを前提、お約束ごととしてスタートしている。
その教義の探求、歴史考証や文献探索など、とても魅力的な世界である。
しかし大切なことは、実践というところを基軸にして探求していこう、自らの生活のなかにあらわれた結果をもとに観ていこうと思っている。ブッダ自らが、「自ら実践して確かめよ」と述べているわけだ。

日本熊森協会 木を伐る

友人の山路くんが、森の木を伐るというので見学。春野町のとなりの龍山〜佐久間にかけてのエリアだ。この日は50本ほど伐ったらしい。
彼は無給ボランティア。生物多様性のある森にしようというための伐採だ。こんな急峻な森の伐採はたいへんだ。
彼は、日本熊森協会(にほんくまもりきょうかい)に属している、奥山の生態系保全、バランスが崩れた自然を元に戻すのが目的だ。
日本には古来から、原生林を残す伝統があった。自然との共生してきた。この伝統こそ「真の自然保護」だ。そこには、クマをはじめとする大型野生鳥獣のすむ保水力抜群の豊かな森があった。
ところが、戦後の開発や拡大造林により奥山はスギ・ヒノキばかりの人工林に。さらに、林業不振により森は放置。放置された人工林は、密集して鬱蒼として、生物が暮らせない森となってしまった。土壌が流出し保水力もない森と。
この団体は、広大な山を買ってはスギ・ヒノキを伐採して、日が射す環境にする。日が射せば、土地の中に眠っていた雑木の実が育って、数年すれば雑木の森となるのだ。
この山路くんもそうだが、やはり友人の志村さんなど、60歳で女性でありながら、地道に伐採をしている。志村さんは、ボランティアでこれまで3,000本を木を伐ってきたという。ものすごいことだ。このポスターはその志村さんがつくったもの。
あかりが立っている木は、熊が爪で川を剥いだもの。

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日本で暮らす外国人パワー

コンテナの移動の仕事をしてくれたペルー人のパチェコ。中古車の販売、農機具引取、家の解体、大工、鉄の溶接、草刈り、かなりいろいろなことができる。頼りになる。

日本に来て20年。いま44歳。三人の子どもがいる。ポルトガル語スペイン語、イタリア語、英語、日本語ができる。

暮らしている団地には、外国人が多い。通わせている幼稚園は3割が外国人だという。ブラジル、ペルー、マレーシア、ネパール、アラビア、中国など。

きっと国際的なおもしろい幼稚園だと思う。小学校もそうだという。あかりなど、通わせたいものだ。

日本で仕事をしている外国人は、いろいろネットワークを持っているのが強みだ。カトリック信者が多いので、カトリック教会など礼拝には200名くらいが集う。それが異業種交流会となる。こないだ山里の教会にいったら500人くらいのブラジル人がいて驚いた。

そして、異業種交流会のようで、ネットワークを生かして、仕事をしている。たいしたものである。そういう時代が来ている。
コンテナの移動の仕事をしてくれたペルー人のパチェコ。中古車の販売、農機具引取、家の解体、大工、鉄の溶接、草刈り、かなりいろいろなことができる。頼りになる。

日本に来て20年。いま44歳。三人の子どもがいる。ポルトガル語スペイン語、イタリア語、英語、日本語ができる。

暮らしている団地には、外国人が多い。通わせている幼稚園は3割が外国人だという。ブラジル、ペルー、マレーシア、ネパール、アラビア、中国など。

きっと国際的なおもしろい幼稚園だと思う。小学校もそうだという。あかりなど、通わせたいものだ。

日本で仕事をしている外国人は、いろいろネットワークを持っているのが強みだ。カトリック信者が多いので、カトリック教会など礼拝には200名くらいが集う。それが異業種交流会となる。こないだ山里の教会にいったら500人くらいのブラジル人がいて驚いた。

そして、異業種交流会のようで、ネットワークを生かして、仕事をしている。たいしたものである。そういう時代が来ている。

「なんだっていい」という宗教的身体実感で生きているので

なにしろおとうちゃんが、「なんだっていい」という宗教的身体実感で生きている。ので、あかりもそのあたりは自在だ。

あそんでー、絵本よんでーと騒いでいた。泣き出したり、八つあたりしたり。

おとうちゃんは、南無妙法蓮華経と唱えだす(日蓮の真筆漫荼羅をダウンロードした自製の本尊なんだけど)。こうしたマントラ瞑想はエネルギー源なのだ。南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも、不動真言でも、インドのお経でも祈りの歌でも、なんでもいいのだ。

ただ、真剣に徹して唱えることにしている。

南無妙法蓮華経と唱えていると、あかりが膝の上に乗ってきた。そして、一緒に唱えだす。10分くらい、徹して大きな声で。数珠も手にして。

すると「お経を読もう」と言いだす。
あかりは、経机の下のお経をごそごそと探す。

まずは、般若心経。そして舎利礼文(しゃりらいもん)。法華経の方便品。道元の修証義。無量寿経光顔巍巍の偈。そしてまた、お題目。

しっかりと合誦できた。ちゃんとリズムが合う。驚くなあ。
いきなりエネルギーがシフトした感じだ。

でも、「もう飽きた。疲れた」と突然、やめる。そのあたりは、おとうちゃんとよく似ている。

おとうちゃんは、インドの祈りの歌、女神を称える「
Tvameva Mata- cha Pita- tvameva」を歌いつづけていたのだった。仏教であれ神道であれヒンドゥーであれ、それぞれの味わいがある。イスラムだけは、難しくて朗唱できないけれど。

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる

「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」(親鸞歎異抄)というのが、ぼくの生き方の基本。

縁があればそこから起きていくし、縁が尽きればそこでおしまい(親鸞はもっと深い意味で言っているんだと思うけれど)。

年末から、友人のT君がうちの施設の一室に暮らすことになった。正月には、ネパールのクリシュナたち7名たちが、ここで瞑想キャンプ。

そして、また中旬から、インドにずっと暮らしていたNさん夫妻が、訪ねてきて10日あまり滞在。そしていま、うちの空き家にしばらく滞在してくれることになった。

それぞれの役割があるようで、いろいろありがたい。T君のはたらきぶりのすごいこと。木工、力仕事、掃除、片付け、あかりと遊んでくれるなど、ぼくに足りないところを、よーく補ってくれている。とても助かる。まるで、カミの使いみたいな。

Nさん夫妻は、深遠な瞑想世界の人。片付けのできていない広大な敷地の空き家に暮らしてもらうことで、すこしずつ片付いて浄化されていく、秩序ができていくようでありがたい。

ワクチンを2回接種した人のほうが、オミクロンに感染しているブレークスルー感染率は76%。いっぽう未接種者の感染率は24%と少ない。
「1月12日時点で臨床情報が得られている191件のオミクロン株感染例のうちワクチン2回接種者は145例」(山際新型コロナ対策大臣の国会答弁)
①「2回のワクチンを接種者の8割近くが、オミクロンに感染」している。
②「3回目接種した場合には発症予防効果があるとの科学的知見がある」と山際大臣は言う。しかしその根拠は不明。
③また新種株ができたら、ブレークスルー感染するだろう。そして次々とワクチン漬けというイタチごっこに至る。

上記答弁によれば、未接種者のオミクロンの感染者は、46例。
191例(感染者)−145例(2回接種者)=46例(未接種者)ということで、感染率は24%と少ない。
①ワクチン接種者の76%がオミクロンに感染。(145/191)
②未接種者は24%の感染率。(46/191)
③未接種者のほうが、オミクロンに感染していない。

「ワクチン接種者の感染率は高いが、未接種者よりも重症化しない」という見方もある。しかしその根拠は不明。
未接種者の感染率と重症化率、接種者の感染率と重症化率とを対比がないとわからない。
ともあれ、国はなにがなんでも3回目のワクチン接種を行いたいようだ。イスラエルは4回目の摂種となっている。

ワクチンを2回接種してもオミクロンに感染している(ブレークスルー感染率)75.9%。

ワクチンを2回接種した人のほうが、オミクロンに感染しているブレークスルー感染率は76%。いっぽう未接種者の感染率は24%と少ない。
 
「1月12日時点で臨床情報が得られている191件のオミクロン株感染例のうちワクチン2回接種者は145例」(山際新型コロナ対策大臣の国会答弁)
 
①「2回のワクチンを接種者の8割近くが、オミクロンに感染」している。
②「3回目接種した場合には発症予防効果があるとの科学的知見がある」と山際大臣は言う。しかしその根拠は不明。
③また新種株ができたら、ブレークスルー感染するだろう。そして次々とワクチン漬けというイタチごっこに至る。
 
上記答弁によれば、未接種者のオミクロンの感染者は、46例。
191例(感染者)−145例(2回接種者)=46例(未接種者)ということで、感染率は24%と少ない。
 
①ワクチン接種者の76%がオミクロンに感染。(145/191)
②未接種者は24%の感染率。(46/191)
③未接種者のほうが、オミクロンに感染していない。
 
「ワクチン接種者の感染率は高いが、未接種者よりも重症化しない」という見方もある。しかしその根拠は不明。
 
未接種者の感染率と重症化率、接種者の感染率と重症化率とを対比がないとわからない。
 
ともあれ、国はなにがなんでも3回目のワクチン接種を行いたいようだ。イスラエルは4回目の摂種となっている。

3回目のワクチン接種の案内が来た

 
利用者さんのところに3回目のワクチン接種の案内が来た。
どれどれと見てみると、裏面には、こういう表記があった。
健康被害の起こる可能性がある」「発症を予防する効果は100%ではない」「変異株の影響がある」。
今後、4回目、5回目、6回目……とワクチン接種するようになるのかどうか。
①接種を受けていない人に対して差別的な対応をすることはあってはならない。
健康被害(病気になったり障害が残ったりすること)が起こることがある。極めてまれではあるものの、 なくすことはできない。
③ワクチンは、発症を予防する高い効果が確認されているが、その効果は100% ではない。また、ウイルスの変異による影響もある。
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○ワクチンを受けるにはご本人の同意が必要です。
ワクチンを受ける際には、感染症予防の効果と副反応のリスクの双方について、正しい知識を持っていただいた上で、 ご本人の意思に基づいて接種をご判断いただきますようお願いします。受ける方の同意なく、接種が行われることはあり ません。 職場や周りの方などに接種を強制したり、接種を受けていない人に対して差別的な対応をすることはあってはなりません。
○予防接種健康被害救済制度があります。
予防接種では健康被害(病気になったり障害が残ったりすること)が起こることがあります。極めてまれではあるものの、 なくすことはできないことから、救済制度が設けられています。 申請に必要となる手続きなどについては、住民票がある市町村にご相談ください。
○ワクチンを受けた後も、マスクの着用など、感染予防対策の継続をお願いします。
新型コロナワクチンは、新型コロナウイルス感染症の発症を予防する高い効果が確認されていますが、その効果は100% ではありません。また、ウイルスの変異による影響もあります。
このため、皆さまに感染予防対策を継続していただくようお願いします。具体的には、「3つの密(密集・密接・密閉)」の 回避、マスクの着用、石けんによる手洗いや手指消毒用アルコールによる消毒の励行などをお願いします。
 
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次から次へと上に加えて複雑になっていく

あかりのブロック遊びをみていると、次から次へと上に加えていく。 
それをまたおとうちゃんは、さらに複雑に積み重ねていく。「どうだー!」という異体かつ不可思議がものがつくられていく。
それはやがて壊されて、また新しいものが作られ、また、上へ上へとと積み重ねられて複雑になっていく。
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これは、仏教思想の発展形式も似ていると思う。
とくに仏教において、原始仏教から精緻・複雑な阿毘達磨(アビダルマ)があらわれて小乗となり、戒律も250〜500と数が増えていく。
やがて、商人たちによって大乗仏教が信奉され、あらたな般若(智慧)による仏典が形成されていく。般若経、楞伽経、維摩経華厳経、そして法華経や涅槃経。そうしてまた更に、密教が現れて大日如来による説が説かれていく。
かくして、「先のものよりもこちらがすごいのだ」と主張したいがために、より複雑で難解なものとなっていく。そうして仏教というと、くらくらするような難渋、複雑、重厚、膨大なものとなっていく。
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しかしじつのところ、ブッダのいいたいことはシンプルなものであったろう。深いものは本質的なものはシンプル。
一言でいうと「いまここの自分に気がつくのみ」「人生はいまここの瞬間瞬間にある」。
「わたしが、という心があるために複雑になる」。その「わたしというありようこそが、すべての問題である」と。
そんなことを説いていたのではないか。そのあたりを探求していきたい。

生涯、ひまだーということはなさそうだ

ひとつ困難な仕事を乗り越えて、すこしホッとする。だが、また次の波が押し寄せてくる。それをまた乗り越える。でもまた次の波がくる。なんとかなるのかなあ、ならないのかもしれない。わからない。ということがつづく人生。

①本作りのメドがたった。校正も完了。あとは、印刷手配して納品されるという段取りができた。やっと安心の領域に。やれやれ。どうも緻密な仕事は苦手だ。

②次の本は、山里の90代の元気なお年寄りの本の執筆にエネルギーを集中。こちらは、企画から原稿作りまでなので、校正やデザイン、印刷手配の神経使うことはない。

③経営しているデイサービスの実地指導。行政の監査というのか厳しいチェックに向けて整理整頓。さらには、NPO法人、一般社団法人、有限会社の決算。確定申告。

③ZOOMの再開。今年は、多文化共生をテーマに行う。海外に暮らす日本人、日本で暮らす外国人の異文化体験。そのZOOM講座。インド学の講座も開催。

④いきいきの森の再生事業として、竹林の伐採と活用。県のグリーンツーリズム推進事業として、炭焼き窯をすすめていたが、内容を変更して、ピザ窯と竈の集いの場作り。さらには、紙漉き体験のワークショップなど。

これらは3月までにやらなくちゃいけないプロジェクト。締切があるというのが、つらいこと。しかし、それがないと、やらない。やれない。

こうして、死ぬまで仕事がたくさんありそう。生涯、ひまだーということはなさそうだ。ただ、日本軍が戦線を次々に拡大して、戦力を集中できず、ついには無条件降伏となった歴史を鑑とせねば。

Bhaddekaratta gathā バッデーカラッタ・ガータ

Bhaddekaratta gathā バッデーカラッタ・ガータ

よく「一夜賢者の教え」と訳されている。
このお経が、仏教の究極、生き方の究極と思っている。
たくさんのお経があるが、これ一本で十分。そう思っている。

要約すれば、人生とは、いまこの瞬間にあり。いまここでなすべきことをちゃんとする、そこに尽きる、ということになる。
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意訳してみた。

過去を追いもとめない。
未来を願いもとめない。

過去はすでに過ぎ去ったもの。
未来は未だ来ない。

いまここにまさに、あらわれている現実。
そこに、よく気がついていること。

揺らぐこともない。
執着することもない。
智慧あるものは、そのように生きる。

今日こそ努め励むべきこと。
だれが明日の死を知ろう。
死の大軍に恐れることはない。

悟った人は、昼夜怠ることなく、そのように暮らしている。
それは、まさに「日々是好日」。
そのように静寂で心の澄みきったブッダは説かれた。
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Bhaddekaratta gathāバッデーカラッタ・ガータ

Bhaddは、ブッダに通じる。目覚めた人、悟った人、賢い人という意味合いだろう。
ekaは、「一つ」。パーリ語では「エーカ」。ヒンディー語では、エイクと発音される。
rattaは、パーリ語では「ラッタ」。サンスクリット語では、「ラートリー」。夜という意味だ。
インドでは、「シヴァ・ラートリー」(シヴァ神の夜の祭り)「ナボ・ラートリー」(9つの女神の祭)など、夜を徹した大きな祭がある。

gathāは、サンスクリット語で言うと「ギータ」で歌。これが漢訳されたとき、音写されて「偈」(げ)となった。いまのほとんどのお経には、ほとんどこの「偈」の韻を踏んだ形式が継承されている。

ということで「悟った人の一夜の教え」ということになるか。

パーリ語は詳しくないので、まちがっているかもしれない。インドによく旅をしてきたので、ほんのすこしヒンディー語はわかる。口語のパーリ語(原始仏典)→文語のサンスクリット語(大乗仏典)→ヒンディー語(いまのインドの公用語)という流れがある。

これをパーリ語のまま、節をつけてよめるように練習している。

おれ、もうだめだよ。歩けなくなってしまった。

電話の声に元気がない。
「池谷さんか。ありがとう。おれ、もうだめだよ。歩けなくなってしまった。もうすぐ死ぬかもしれない。」


ガンにかかった友人だ。手術は避けて自力で治そうとしてきた方だ。友人が世話をしてくれていて、病院に入っていない。
だが、いまはほとんど食欲もなくなった。食事もほとんど喉に通らない。
そして歩けなくなった。
ふと友人のことを思い出して、電話してみたのだった。


田舎暮らしのことで、東京から何度か訪ねてきてくれていた。ギタリストをしていた。


──もう食べられないというのは、体が死への準備が始まったということなんですかね。無理矢理、食べる必要もないのかもしれませんね。
「いつ死んでもいいという気持ちでいるんだけれどね。ところで、池谷さん、断食死のことを言っていたよね。」


──はい。死ぬときは断食死がいいと思っていますよ。ぼくの体験でいうと、断食すると、4日目あたりからとても楽になる。胃が軽くなって、頭もスッキリしてきます。そのまま食べなかったら、安楽に逝けるような気がしたことがありましたよ。そのまま食べないで、断食してこの世とおさらば、というのも選択肢の一つかも。


「もしも元気になったら、池谷さんとこでドラム缶風呂に入りたいよ」


──また、遊びにきてね。いま、露天風呂を充実させて、毎日、二回入っていますよ。冷水浴とあわせて、体の芯から温まって、至福の体験になっています。


「うらやましいなぁ。池谷さんのFacebookはいつも読んでるよ。ぼくのイイネがついていたら、まだ生きている思ってほしい。」


そんな話をしたのだった。
お互い明日のことはわからない。何が起きるかわからない。事故で死ぬかもしれない、病気で倒れるかもしれない。自然災害とか様々な要素が起きるかもしれない。だから、死ぬまで踊るというのか、今この瞬間をちゃんと生きるってことかなあ。