過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

天理教春野教会を訪ねる

「ついでに寄ってみよう」というノリであちこち訪ねることがある。いま介護施設を運営しているので、なかなか外出できない。6つになる娘(あかり)もいて、日常の動きは制限される。
なので、ひとたび出かけると、「じゃあついでに寄ってみよう」という感じで訪ねることになる。
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一昨日は、施設に薪ストーブを入れようと思い立って、具体的に実践している家を訪ねた。100万円もするストーブではなくて、数万円。しかも自分で施工したもの。
「なるほど、これなら施設にも導入できそうだ」という感触を得る。薪はスギ・ヒノキならふんだんにあるし(もちろん広葉樹がいいのは当然だが)。
その方はクリスチャン。これまでの苦闘の体験から、神に導かれた、救われたという体験を聞かせてもらう。体験から出てきた言葉には、説得力がある。
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さて、その近くに天理教の教会がある。「じゃあ、ついでに訪ねてみよう」ということになる。
妻と康ちゃんと三人で訪ねた。天理教の春野教会だ。
これまで数度訪ねているが、いつも安定していい感じ。なにより神殿が整然としてすがすがしい。わが暮らしはごちゃごちゃ。なので、そこはすごく違いを感じる。
奥様とお話をしていると、教会長も来てくださった。親様(天理教の教主 中山みき)の十二下りという歌のこと、三か月の修練コースのこと、お地場のことなど、いろいろ教えてもらう。
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教義がどうのではない。この落ち着いた感じ、整然として自然な感じ、穏やかな感じ。じつに感心したのであった。
仕事としても個人的な興味としても、仏教、新宗教、外国の宗教など探求している。宗教は外からは眺めない。内側から体験として探求する。
その意味でも、天理教は、安定した落ち着きを感じて、暮らしの中の生き方の中での安らぎを感じたのであった。