過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【⑤マザー・テレサ訪問記】2025.12.1

【⑤マザー・テレサ訪問記】2025.12.1

自分たちの後ろに当のマザーがいるのに、そのことに気づかずにいた。いかにも象徴的なことだなあと思った。

聖職者や偉い人、あるいはグルみたいな人は、みんなと違う特別な格好をしている。冠をかぶるとか、派手な衣を着るとか、何か杖を持っているとか。そして、みんなの前で何か説法したり、祈りを捧げたりするものだ。

マザーもそんな感じだろうと思っていた。
ところがマザーは、普通のシスターの格好をして、入り口の下駄箱のそばというだれよりも下座にいてひたすら祈っていたのであった。

------------------------------------

ミサが終わる。
すると、マザーはすっくと立ち上がる。

参加者一人ひとりにマリア像のメダイ(アルミでできた小さなマリア像のレリーフ)を、手渡してくれた。
深く刻まれた皺の奥にある目を見た。

特に笑顔でもない。特別な感じは全くしない。普通のおばあさんだった。
「日本からマザーに会いに来ました」というと、マザーは「アッチャー」と答えた。インドの人がよく言う、「あらまあ」といった感じの言葉だ。
あいにく、私の英語力では、話の展開はほとんどできなかった。モーゼの十戒を刻んだアークが日本に眠っていて、それを掘り返すというような荒唐無稽な話をマザーにするわけにもいかない。

------------------------------------

マザーは最も下座にいた。下座にいて祈り続ける人だった。
祈りに徹する姿こそがマザーの本質なんだろうなと思った。

「微動だにせず」祈り続ける小さく丸まった姿——そこには、権威も演出も一切ない。ただ祈りだけがある。

「特別な人」「特別なこと」を大切にしていると、本当の意味で特別な人がそこにいるのに、特別な格好をしていないので、気がつかない。見えない。

私たちは、「偉い人」「聖なる存在」「グル」というイメージを勝手に固め、そのイメージ通りの外見や立場を求めてしまう。
しかし、本当に偉大な人は、そのイメージに寄り掛かる必要がない。むしろそれらを徹底して脱ぎ捨てている。

「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイによる福音書