【①物事をさらりと流せるようになってきた実感】2025.12.1
友人が見舞いに来てくれた。
私はベッドに寝たまま、ずっと横になりながらの会話だった。
友の差し入れは、手作りのサツマイモケーキ、缶ビール、そして朝イチで港に買いに行ったという魚のアラ煮。どれも美味しかった。あれこれと机の移動や台所の片付けもしてもらった。ありがたい。
話題は、これからの暮らしの経済的なことや、年老いた金持ちの友人が次々と人にお金を貸したり投資したりして、結局食い物にされているという話など、なかなか身につまされる内容もあった。ともあれ、友との会話は楽しい。余韻が残る。考える素材を与えてもらえる。
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「いろんな瞑想をやってきたけど、結局自分は変わらないし、成長してる気もしない」と友人が言っていた。
確かに、どんな瞑想法をしても、人間の本質的な質そのものが変わるわけではないかもしれない。
私自身、かつてマントラ瞑想(南無妙法蓮華経の唱題行)を熱心にしていた時期には、エネルギーが満ちて行動力が出たり、自分の未熟さ・ダメさに気づかされることはあった。
でも、それで人間としての「質」が根本から変わったかと言われると、そうでもないかな。これが正しいとか他は間違っているとか、ヘンな自我意識が強くなるという負の側面もあった。
最近はブッダの教えに沿って歩もうとしている。
その中心がヴィパッサナー——「いまここ」に気づき、ただ観察することだ。
これは、マントラ瞑想や集中瞑想とは異なる道。
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ひたすら「いまここ」に意識を向ける。内側から自分を観察する。
呼吸に意識を留め、動作に気づき、感覚に気づく。思考がなるべく湧かないようにする。やろうとすれば四六時中、それが可能だ。私はまだまだ未熟で、雑念や妄想が次々に出てきて難しいけれど。
それが理由かどうかはわからないが、最近、執着がだいぶ薄れてきたように思う。
イライラしたり腹が立つことが減り、怒りという感情そのものが以前よりずっと小さくなっているのは確かだ。
それは歳のせいなのか、家庭を持ち子を育てた経験からなのか、自分のダメなところが見えてきたからなのか、病気を患ったからなのか——いろんな要因があるのだろう。(続く)