過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【初めての本格的な坐禅】初めての本格的な坐禅 2025.10.11

【初めての本格的な坐禅──身体と心の変容のドキュメント】2025.10.11

接心(坐禅)に参加したのは、今から40年ほど前、30歳のときだった。

日蓮宗のお寺での唱題体験から、日蓮主義と創価学会の呪縛から離れたので、他宗派の体験をしてみようという気になった。
そこで、まずは座禅だ。

新聞に掲載されていた案内から、臨済宗の国際禅道場(千葉県鹿野山)で新年から始まる3泊4日の徹底した坐禅会があることを知り、申し込んだ。

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参加者は20名ほど。朝4時に起床し、夜10時まで坐る。40分ごとに10分の休憩が入る。曹洞禅とは異なり、臨済禅では目を開けて壁を背に坐る(曹洞宗は壁に向かって坐る)。

真冬というのに坐禅堂は開け放し。40分の坐禅と10分の休憩を繰り返し、途中に読経や作務の時間もある。

ただ坐るだけだ。やることは呼吸しかない。吸う・吐くだけの世界に身を置く。警策を持った僧侶がものすごい声で怒鳴り、堂内にみなぎる気合いは武士道のようでもあった。

食事は一汁一菜だ。しかも、徹底して音を出してはいけない。作法もすごく徹底して叩き込まれた。参加者のほとんどどは、すでに座禅を体験しているベテランで、初心者は私ぐらいであったろう。
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道場の玄関には、樫の木の警策(打ち据える棒)が掛かっていた。

「道(い)い得るも三十棒、道(い)い得ざるも三十棒」

「答えようが答えまいが、打って打って打ちのめす! 余計な考えを止めろ、さもなくば三十棒をくらわせるぞ!」というほどの意味だろうか。

と書かれている。たしか山田無文老師の筆によるものだ。

「三十棒」にはこんな背景がある。

中国に徳山という僧がいた。彼は堂に現れる時、必ず長い棒を持ち、「道い得るも三十棒、道い得ざるも三十棒」と言った。これが徳山が弟子たちに教えたすべてで、それ以外は何も語らなかったという。

実際に参禅中、私はまさに三十棒ほど打たれたと思う。いちどに打たれるときは、右肩に3発、左肩に3発の6発。これが1日に3~4回は行われた。
警策の打ち据え方はすさまじかった。硬い樫の木である。思い切り打たれるわけだから、「痛い」というレベルを超える。

「何だこれは!」

一瞬気が遠くなりそうだった。それほどの衝撃と痛みをイメージしていなかった私は驚いた。激痛と振動が全身を走った。骨が軋み、全身の細胞が目を覚ますほどの衝撃。打たれたアザは1か月近く消えなかった。
坐るたび、この警策が恐ろしい。

しかし、ありがたいもので、打たれると全身の細胞が目覚めたようになり、意識がしっかりと冴えて坐れるようになる。

警策の振動が全身にずっと響いて、細胞が活性化するような、冴えた坐禅を体験できた。その振動はちょうど40分ほど持続する。だからこそ、しっかりと坐っていられたわけだ。
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丹田に力を入れろ! ふいごで火を起こすように息をしろ。たった一つの呼吸もおろそかにするな!」

指導する僧が励ます。
「ひとーーー(息を吐く)つーーー(息を吸う)」「ひとーーーつ、ふたーーーつ、みーーーっ、とおーーー」と、10まで数えてはまた「ひとーーーつ」と延々と繰り返す。
終わりはない。この「数息観」(すそくかん)を続けると呼吸が深くなり、吸う・吐くで1分、10回で10分となる。

丹田に力を入れるほど、内側からエネルギーが満ちて体中が熱くなる。雑念も少しずつ消え、余計なものが削ぎ落とされるようだ。

深い呼吸で酸素が細胞の隅々にまで行きわたり、腸の動きが活発になったのだろう。血色も驚くほど良くなった。心身が活力に満ち、透明で澄んだ心地よさを感じた。
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4日目の朝のことだ。目はちゃんと開いている。眠ってなどいない。頭も冴えている。いつものように「ひとーーーつ、ふたーーーつ」と数息観をしながら、丹田に力を入れて坐っていた。

すると、んん?地面が裂けてくる。揺らいでくる。
壁がぐにゃりと崩れ、あらゆるものの輪郭が溶け出してくる。

地面の底から、巨大なもの、龍のようなものがゆらゆらと現れた。次々と異界の生物のようなものが現れてくる。まるで宮崎アニメ『もののけ姫』のデイダラボッチが崩れていくような動きだった。

目はしっかりと開いていた。決して眠ってなどいない。意識は「いまここ」にきちんとある。
それなのに、目の前にさまざまな生き物が動き回り、リアルに見えるのだ。この世のものではない生き物。これほどはっきりと見たことはなかった。

一体何だったのだろう。単なる幻想や妄想を見せられたのか。自分の心の中のものを見せられていたのだろうか。それとも、現実とはこういう異界の生物たちが立ち現れて揺らぐ世界なのか。

神々や低級霊と呼ばれる、普段は目に見えない存在が実際に蠢いており、瞑想によってそれが見えるようになったのだろうか。
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後で僧侶にそのことを尋ねた。

「ああ、見えましたか。それはよくあることです。この坐禅の世界ではよく起こる。時には音がしたり、光が見えたり、香りがしたりする。仏さまや観音さまが現れることもある。
すると、それを悟りだと思い込む者がいる。まさにそれが魔境なんだ。だから警策で徹底的に打ち据える。魔境に入りやすいので、一人で坐禅しないよう教えている」と答えられた。

初めての坐禅はとても神秘的なものとなった。

警策の痛みから始まり、呼吸による集中、そして異界の顕現——これらすべてが「意識を覚醒させるためのプロセス」として繋がったともいえようか。

まったくはじめての体験だから、こういうことが起きたのだろう。似たような体験を期待したら、もう起きないと思う。
また、坐りたいと思ったが、あの警策の厳しさを思うと二の足を踏んで、ここでの坐禅会はそれが最後となった。鎌倉の円覚寺にも参加したが、ここもまたかなり厳しかった。

お坊さんには、「お前は見込みがあるから出家しないか。弟子にならんか。あるいは私の師匠(松原泰道老師)を紹介してもいい」とも言われたのであったが。