浄土真宗の門徒は、なぜ「なまんだぶ、なまんだぶ」とぼそぼそつぶやくように念仏を称え、一斉に唱和しないのか。
いろいろ考えてみた。
浄土真宗は「他力」の教えであり、「自力」を排している。一斉に唱えようとすると、そこに「自力」的なエネルギーが出てしまう。たくさん念仏を称えてしっかり唱えようとすると、つい力が入りがちだ。
しかし、浄土真宗の教えでは、すでに阿弥陀如来によって救われているのだから、念仏をたくさん称えるか否かは関係ない。
すでに救われているのだから、各自が自然な発露として、「おまかせ」の気持ちで「なまんだぶ、なまんだぶ」と称える。そういうことではないかと思う。ただ、この点はまだよくわからない部分もある。
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東本願寺や西本願寺の朝のお勤め(晨朝勤行)に何度か参加したことがある。参加者は200〜500人程度。
みな、思い思いに「なまんだぶ、なまんだぶ」とぼそぼそ称える。一方で、「正信偈」や「和讃」は一斉に読む。驚くほど声が揃い、ほとんどの人が淀みなく読めるのには驚いた。
他の宗派で、参拝者がこれほど揃ってお経を読めるのは、創価学会のような新興宗教以外では珍しいかもしれない。
お勤めは約1時間続く。その後、毎朝、担当の僧侶が説法を行う。
浄土真宗では「聞法功徳」を重んじる。自力の修行がない分、説法の聴聞が大切にされている。門徒は説法を聞き慣れているためか、僧侶の話は非常に上手い。
説法に聞き入っていると、突然、ひとりの老婦人が立ち上がり、「なまんだーぶ、なんまんだぶ」と感極まったように声を張り上げる。説法の最中だ。
しばらくすると、別の人が同じように立ち上がり、「なまんだーぶ、なんまんだぶ」と称える。そんなことがあちこちで起こる。
これには驚いた。他の宗派で、僧侶の説法中に「南無妙法蓮華経」などと唱える光景は見たことがない。
念仏は個人の信仰の自然な発露に委ねられているからなんだろうと感じた。
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まず、南無妙法蓮華経は「清らかな白い蓮の花のような教えに帰依します」という意味。一方、南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏に帰依します」という意味だ。
南無妙法蓮華経は、朝日が昇るような勢いがあり、エネルギッシュなリズムがある。「さあ、行くぞ!」という元気の良さを感じる。
対して、南無阿弥陀仏は一日が終わって夕暮れのような雰囲気。「今日も一日ありがとう」という納めの感覚がある。力を入れるのではなく、力が抜けるような感じだ。南無妙法蓮華経は力が入る感覚がある。
一方は能動的で前向きなエネルギー、他方は受容的で感謝の心情ともいえる。
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「なまんだぶ」は自然と出るつぶやき。
歩いていて疲れたら「あぁ、疲れた。なまんだぶ」、嫌なことがあったら「あー、嫌になっちゃった。なまんだぶ」、腹が立ったら「あー、ムカムカした。なまんだぶ」、「あー、ありがたい。なまんだぶ」と、日常のさまざまな場面で、自然なつぶやきとして念仏が出てくるイメージがある。
一方、南無妙法蓮華経は「さぁ、これから唱えるぞ、頑張るぞ!」と気合を入れて集中する感じだ。団での力強い唱和には「修行」や「功徳を積む」意味合いが感じられる。
南無妙法蓮華経は父性的、南無阿弥陀仏は母性的と言えるかもしれない。
南無妙法蓮華経が目標に向かって進む「意志と行動」の原理であるなら、南無阿弥陀仏はあるがままを受け入れる「受容と慈愛」の原理ともいえようか。
ただ、称え方は人によって異なり、個人のエネルギーが現れる。南無妙法蓮華経でも、弱々しく唱える人もいる。
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また、浄土宗の南無阿弥陀仏は、木魚を叩いて称える。そのとき、バックビートで打つので、それがなかなか心地よい。
浄土宗の念仏にはいろいろな行法がある。たとえば、「別時念仏」「不断念仏」。夜どうし木魚を叩いて、念仏を称えるという。私はまだ体験したことはないが。
高称(こうしょう)念仏という行法をやっていた友人の寺を訪ねたことがある。
先代住職がを行っていた。「なーむ・あーみ・だー」と声を張り上げ、特に「だー」のときにバチで木魚を力強く叩きつける。
本堂には、直径1メートルくらいの木魚があり、太さ15センチほどのバチがある。その巨大木魚にむかって、バチを思い切り叩きつける。
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巨大な木魚は「だー」のときに打ち据えられるため、大きくくぼんでいた。
思い切りと声を出す。腹の底からとなえる。木魚にバチを叩きつけながら。いわば、「剣豪の修行」のような気合でやる。
これがじつにいい。
私がやってみた時、思い切りすぎてバチが折れて、折れたバチが大きな阿弥陀様の像の近くに跳んでいったことがあった。
ひとつのカタルシスワークにもなる。頭が空っぽになる。すかっとする。
イライラ、怒り、悲しみなど、そういった抑えこまれて出口のない鬱屈した感情が、解放されていくセラピーにも使えそう。バイオエナジェティクス(生体エネルギー療法)に似た、滞った負のエネルギーを吐き出すような力強さがある。
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ともあれ、いろいろな行法があるけれど、声出しは大切。
それも、肚から思いきりだす。
出し尽くす。そして、舞う、跳ねる、踊る。
へとへとになるまでやる。出し切る。
そして、自然と静寂になる。からっぽになる。
そういうことをやりたかったが、いまはもうその元気がない。身体の力がないのだった。