過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【腰痛からの気づき】2025.10.12

【腰痛からの気づき】2025.10.12

当時、私はカセットテープやビデオテープの製造販売を行う会社に勤めており、海外子会社との窓口業務を担当していた。
ドイツやイギリスの販売計画に基づいて国内工場へ生産を手配し、生産能力と販売計画の調整を行う仕事だ。
さらに、海外での物量コストダウンのプロジェクトにも携わっていた。

いつも最終列車に乗って、日本橋の本社から浦安の自宅へ帰る。
土日も出勤が続き、サービス残業は当たり前のような日々だった。

そんな生活のなかで、私は仏教の勉強を始めていた。

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ところが、仏教を学んでいても「心を育てている」という実感はなかった。
概念的・哲学的な理解が増えるだけで、心は少しも穏やかにならない。

仕事に没頭するほど、他部署への怒りや苛立ちが募り、ムカムカとした感情を抑えられなくなっていた。
やがて、体に変調が現れる――それが腰痛だった。

中学時代、器械体操部で腰を痛めており、以来ときどき腰痛が出ることがあった。
くしゃみをしても腰に響き、階段を上るのもつらい。
しばらく治まっていたのに、猛烈に働くようになってから再発した。

片側の腰からつま先まで冷え切ってしびれ、まっすぐ立てない。
医師からは「腰椎椎間板ヘルニアによる疼痛性側彎症」と診断された。

痛みを避けるために体が無意識に傾き、脊椎が一時的に弯曲する。
脊椎周囲の神経への刺激が痛みや筋肉の緊張を引き起こし、それを和らげようとして姿勢がさらに傾く――そんな悪循環だった。

通院して温熱療法や牽引を受けたが、医師からは椎間板ヘルニアの摘出手術や脊椎固定術も勧められた。

腰は体の要。腰が動かないと体全体の動きも鈍る。
「このまま歳を取ったら、もっと悪くなるだろう」と思うと、暗澹たる気持ちになった。
腰痛とともに生きる人生を想像するだけで、憂うつだった。

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そんな折、自己啓発セミナーで出会った工藤先生という方に「一度、診療所に遊びにおいでよ」と誘われ、下北沢の医院を訪ねた。

診察台に横になると、先生が太ももを触って「ああ、やっぱり」と言う。
「え? 何がですか?」と尋ねると、先生はこう説明した。

「全身の細胞が『負けてたまるか』という状態になっている。身体の重心が上に上がってしまっているんだ。
太ももはカチカチ。支える筋肉が緊張して骨を引っ張る。怒りのエネルギーのせいだよ。
だから腰痛になるんだ。」

「なるほど。では、どうすればいいのでしょうか?」

「骨は筋肉の上に浮かんでいるようなものだから、まず筋肉を緩めなきゃいけない。
今ここでほぐすことはできるけれど、池谷さんの気持ちの持ち方が変わらなければ、また元に戻るよ。」

「はい、確かに……」

「『負けるが一番』『急がば回れ』『勝とうとしない』。
そういう気持ちで生きることが大事だ。勝ち負けにこだわらない。負けたっていいんだよ。」

その言葉に、深くうなずいた。
後で知ったのだが、工藤先生の医院には竹下登元首相をはじめ、名だたる人々が通っていたという。

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まもなく、海外物流事業部の上司が子会社に出向となり、社長直属のプロジェクトは解散。
私は総務部株式課に異動となった。

社員持株会の管理、総会屋対策、株主総会の想定問答集づくり、日銀への報告――いわゆる事務的な仕事である。
以前の仕事に比べれば格段に楽で、忙しさもなかった。

「出世コースから外れたなあ」と感じたが、そのとき、工藤先生の言葉を思い出した。
急がば回れ」「負けるが勝ち」――。

気持ちを切り替え、5時半になると「失礼します」と退社するようになった。
夜の時間は、自己啓発セミナーやワークショップへの参加にあてた。

すると不思議なことに、3か月ほどで腰痛は見事に消え、それ以来、一度も再発していない。

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「腰痛は怒りである」という本のタイトルを見たことがあるが、確かにその通りかもしれない。

頑張れば頑張るほど、被害者意識が強まり、怒りが湧いてくる。
その怒りが、心身の弱い部分を直撃するのだろう。

怒りのエネルギーで働いていたのでは、人間関係もうまくいくはずがない。
だからこそ、体が「もうやめなさい」というサインを出してくれたのだと思う。

こうして私の仕事は「9時から5時半」に変わり、無理をしなくなった。
仕事自体は面白くなかったが、隣の財務部ではバブル景気の真っ只中。
「何億円儲かった」という話が飛び交い、日本がロックフェラーセンターを買うような時代だった。

5時半以降の自由な時間に、自己啓発セミナー、国際心理開発協会のセミナーやチャネリングの会などに参加し始めた。

そして36歳の年末年始、長い休みを利用して初めてインドを訪れた。
その旅をきっかけに、のちに13回もインドへ足を運ぶことになり、人生観が大きく変わる。

その話は、また改めて「インド編」として記すことにしよう。