三十歳のとき、妙厳寺(千葉県大多喜町)での唱題行が、私のあらゆる宗教探求の原点となった。これは、創価学会という呪縛から私を解き放ち、自由な視点で宗教を見つめ直す、決定的な契機となった。
きっかけは、朝日新聞に掲載された一本の行事案内だった。「タケノコ掘り参加者募集(千葉大多喜南無道場 妙厳寺)」——その記事に惹かれて、私は二泊三日の体験に足を踏み入れた。
妙厳寺での唱題行は、私の心を大きく解放してくれた。創価学会の枠組みを突破し、世界が一気に広がる瞬間を体感した。身体的実感も伴い、すべての宗派にはそれぞれの味わいがあり、ただ自分の縁に従って進めばよいのだと気づかされた。
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それまでの私の信仰生活は、創価学会が中心だった。「他宗派に触れると不幸になり、罰が当たる。頭が七つに割れる」——そんな考えが強く刷り込まれていた。
「仏法学舎」で大乗仏教の教義を学び、日蓮の教義の偏りを頭では理解していても、他宗派の寺院を訪れてそこで拝むことには、強い心理的抵抗があった。
広島での浄土真宗の体験も、「仏教講演会」という名目だったため、『正信偈』や『和讃』が読まれるとは思わず、お経とも感じられなかった。参加者は揃って念仏を称えていなかった。
しかし、この「タケノコ掘り」体験は、会場が正式な日蓮宗の寺院で行われた点が決定的に違った。
宿泊を伴うため、まず本堂で、朝晩の勤行や唱題行が厳かに執り行われた。
最初の説明会は本堂で開かれ、そこで日蓮の十界曼荼羅と祖師像を拝観した。安っぽい着色がむしろ気味悪く感じられ、「罰が当たるのでは?」という恐れも確かにあった。しかし、もう参加してしまったのだから、と覚悟を決め、気持ちを切り替えることにした。
そして、森の中のお寺と野坂法行住職のおおらかな人柄が、私に安心感を与えてくれた。
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夕食前、暗い本堂で勤行が始まった。『法華経』の方便品と如来寿量品の読誦、そして南無妙法蓮華経の唱題行である。
まず十分ほどの坐禅から始まった。
と不思議に思った。初めての坐禅では、次々と雑念が頭をよぎる。
正座に戻り、三帰依文、懺悔文、開経偈が読まれ、いよいよ唱題が始まる。
大きな太鼓の響きに合わせ、「なーむ・ みょー・ ほー・ れん・ げー・ きょう」と、非常にゆっくりと唱え始める。次第にテンポは速くなり、やがて驚くほどの速さに達する。全力で声を出し続けた頂点を過ぎると、今度は徐々に、そして非常にゆっくりとしたペースに戻っていく。この一連の流れは十分から二十分ほどであった。
やがてお題目の声が止み、再び十分ほどの坐禅が始まる。
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その時、私は大きな驚きを体験した。
唱題前の坐禅と唱題後の坐禅の間に、明らかな違いを感じたのである。
唱題後の心境は、澄み渡った——という表現がふさわしい、深い静寂に包まれていた。頭の中が驚くほどスッキリとし、清明感に満たされていた。雑念が消え、心が静まっている——それがありありと感じられた。
唱題前は雑念に満ち、頭の中が忙しかったことに、この静けさの中で気づかされた。
唱題後の坐禅では、その清らかな感覚が際立っていた。虫の声、風の音、木々のそよぎ、本堂の軋む音までもが、鮮明に耳に飛び込んでくる。それらは、唱題前の坐禅では気づかなかった音ばかりだった。
唱題前の自分がいかに多くの雑念に囚われていたかが、じつによく理解できた。
唱題行は、集中瞑想である。声を出す丹田呼吸法でもある。身体を振動させ、次から次へと湧き出てくる(噴出する)思考を沈めさせる。
思考は、無駄なエネルギーの漏洩でもある。これが静まると、内側から清らかなエネルギーが湧いてくる感じがある。心身まるごと全体を感じるようにもなる。それを実感した。
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後になって知ったことだが、これは湯川上人という方が伝えた唱題法(坐禅〜唱題〜坐禅)であった。
唱題行は一種の集中瞑想であり、声を出す丹田呼吸法でもある。身体を振動させ、次々と湧き上がる思考の奔流を鎮める。思考とはエネルギーの無駄な漏洩であり、それが静まると、内側から清らかなエネルギーが湧き上がり、心身全体をあるがままに感じ取れるようになる。
それまで「邪宗」として忌み嫌っていた創価学会以外の宗派が、体験してみるとまったくそうではないことを知った。
むしろ、こちらのほうが多様性に満ち、たくさんの気づきがあるのではないかと思われた。以来、私はそれぞれの縁や好みに応じて、さまざまな瞑想的実践の集いに参加するようになった。
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朝のお勤めにも参加した。
まず信徒が本堂に集まる。
正座していると、遠くから団扇太鼓とお題目の響きがかすかに聞こえ、長い廊下を通って、二人の僧侶が本堂に近づいてくるのがわかる。
住職と尼さんが本堂に入り、鉦鼓(しょうこ)を「カン」と鳴らし、お経が始まる。
この「開経偈」の文句が素晴らしかった。
「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭いたてまつること難し。
我れ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん。
至極の大乗、思議すべからず、見聞触知、皆菩提に近づく。
能詮は報身。所詮は法身。色相の文字は、即ち是れ応身なり。
無量の功徳、皆是の経に集まれり。
是故に自在に、冥に薫じ密に益す。
有智無智、罪を滅し善を生ず。若は信、若は謗、共に佛道を成ぜん。
三世の諸佛、甚深の妙典なり。生生世世、値遇し頂戴せん。」
(訳)
この上なく深い妙なる法華経は、計り知れない長い時を経ても出会うことが難しい。
しかし、私は今、釈迦が真実の心を明かされた法華経に出会い、その文字を見聞きし、受け持つことができた。
どうか、釈迦の説かれた最上の教えを信じ、習い極められるよう心から願う。
最高の大乗である法華経を小さな考えで理解しようとせず、見聞きし素直に触れることが、そのまま悟りに近づく道と信じて読む。
説かれる教えは永遠に輝き、一切を救い導く釈迦の報身であり、すべての命を仏にしようとする法身そのもの。
お経の文字一つ一つは釈迦の応身そのものだ。
無量の功徳はすべてこの経に集まり、自然に香りが染み込むように知らず知らずのうちに真の利益をもたらす。
智慧ある者も無い者も、罪を滅し善を生み、信じる者もそしる者も共に仏道を成し遂げる。
過去・現在・未来の諸仏が悟られた深い妙典であり、いつの世もこの法華経に出会い、信じ続けることを誓う。