過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

呼吸に立ちかえると、「いま・ここ」に自分を引き戻すことができる

坐って瞑想するというのは、退屈である。坐っているだけで、まったく何もしないのだから。

何もしないと、アタマ(マインド)は困る。アタマは何かしたい、生産的なことをしたい、問題を見つけて処理したい。そのように働くようだ。

なにもしないのが「坐る」ということ。その退屈な状態があると、雑念は次々と浮かぶ。いつしか雑念あそびに入る。妄想の世界にも入りやすい。過去の思い出に浸ったりする。わりとこれが楽しい。そんなことを次々と追いかけていくと、ちっとも心は澄んでこない。

退屈を感じるのは、同じことをしているからだ。ただ坐るだけ、1分経過、2分経過、3分経過……、それは退屈だ。

しかし、つねに「いま」にあれば、退屈ではない。「いま」はいつでも新しい。ただ、それは理論でいえることで、実践の体感として「いま」にいるのは、とても至難。

そこで、呼吸である。呼吸を味わう。出る息・吐く息に意識を向ける。それにともなって起こるお腹の膨らみ、縮みに意識を向ける。内側から味わう。体の膨らみ、縮みに意識を向ける。味わう。

そのことで「いま」に身体を心をつなぎとめる。アタマの暴走を食い止める。

「呼吸」というものは、つねに新しい。「いま」でしかない。いま吸っている現実は、いましかない。過去の呼吸というのはない。また、過去の呼吸の記憶ってものはほとんどない。一つ前の吐く息も吸う息を記憶しているだろうか。それは、きっとない。呼吸はつねに「いま」しかない。

呼吸に立ちかえると、「いま・ここ」に自分を引き戻すことができる。しっかりできると、坐るのは退屈でなくなる。30分、40分と続けていくと、やがて心地よさが現れる。心の静けさが訪れる。喜びが、エネルギーが湧いてくる。

こうなると、瞑想は深くなっていく。安定してくる。一時間くらいはすぐにたつ。呼吸とともにある。そのことを習慣にしていこうとしている。