過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり【親の看とり】① 通し番号118

スマナサーラものがたり【親の看とり】① 通し番号118

スマナサーラ長老の原稿の追加分
いろいろと仏教を学んできてきて思うのは、「自我」が前に現れるとうまくいかない、「自我」が少なくて、減るとものごとはうまくいくということ。人とのコミュニケーションで特に感じる。

いま自分自身は不治の病にかかっているが、いつも書いているように「衰弱して死んでいくプロジェクト」として診ている。

なるたけ自我を消して一つの身体のプロジェクトとしてみようとしている。心配したり、悔やんだり、未来のことをあれこれ心配しても仕方がない。いまできることを、たんたんとすすめるしかない。
そのとき、自我が消えていくと、スムースに物事はすすむ。ストレスが少ないってことだ。

ということで、以下はスマナサーラ長老の話。
  ▽
身内が年老いて認知症になったり、寝たきりになったりします。
「自分の母親がネタ切れになりました。困りました。どうしたらいいでしょうか」と相談されることがあります。

よけいな自我を出さなければ、そんなこと問題ですらないでしょう? 
親が認知症になったら子供のことも忘れちゃうのは当然ですし、体が弱ったら寝たきりになるのも当然のことです。べつにそれでいいんじゃないかと。
あとは、その人がなんとなく快適に生きられる空間を作ってあげればいい。
われわれが、そのときそのときにできる仕事をすればいい。
  ▽
そこには無量の喜びや充実感があるんですよ。
ふだん仕事してても、テレビを見ていても、おいしい食事をしていても、そんなに楽しいわけじゃない。

この「自我なく行動する」ところにのみ、幸福や楽しみがあるんです。
おいしいものを食べて楽しいとか、そんなのは本当は全然楽しくないんです。