スマナサーラものがたり(76)瞑想について⑳
料理に例えてみましょう。「私が晩ご飯をつくらなくてはいけない」というと、ストレスになります。そうではなくて、「私」を主語にしないんです。
たとえば、これから「晩ご飯がつくります」と。ヘンな日本語に聞こえると思います。
主語が「晩ご飯」です。「私」が主語ではありません。
「私が」が消えたら、あとは物事を組み合わせてたんたんと行っていくだけです。
料理をつくる時、「おいしいとみんなに感じてほしい」と思いますね。
そういう思いも外していくのです。
自分を入れないで作ってみるのです。
食べる人たちが「うまい」とか「おいしくない」とか言ったとしても、こちらは関係ないんです。
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ごはんを炊く時。「お米さま」──わたしは「さま」という単語を入れるんですよ。
「お米さま」がどうあればいいかな。「お米さま」が「ご飯さま」になるにはどうなればいいかな。米をとりだして水をいれて研いで炊く。「ああ、ご飯さまがよくできている」。それだけなんです。
「わたしはちょっと固めのほうがいい」「もうちょっと柔らかいほうがいい」とか、いろいろな人がいるでしょう。「美味しいと思ってもらいたい。嫌な思いをもたれにいようにしたい」としてストレスがたまります。
なんと言われようとどうでもいいのです。「ああ、そう?」それでおしまいなんです。
これは「なげやりにつくれ」というのではありません。
お米が、野菜が、食材たちが、どのようにあってほしいかを中心に作っていくのです。
そうすると、自然と美味しい料理ができていくのです。
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なにかこぼしたり、ひっくり返したりして慌てることもあると思います。
子どもがカップを持ってくるとき、水をこぼしてしまった。大切な絨毯を汚してしまった。
「あ、こぼしてしまった。これはたいへん。はやく拭かなくちゃ。はやく。はやく」
普通はすこしパニックになります。
「何でこんなことになっちゃったんだ!ああ、いつもそうだ」
いちいちそこで、後悔したり、怒ったり、がっくりすることでしょう。
それは、自我を入れているからなんですね。
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時間の軸でいうと、まず原因があって、次に結果が起きたということです。それだけのことです。
原因はすでに作ってしまったんだから、結果はかならず起きるわけです。
結果を起こす原因はもう終わった。
だから、もうどうしようもないんです。
そこから後は、自分で管理できるのです。
そのとき、こう思うのです。
「ちょっと待て。これは学びのチャンスだ」
ティッシュを濡らしてポンポンと叩く。たんたんとやります。
「もうちょっと待ってください。はい。みてください」。
これでとてもうまくいくんです。すごくきれいになっています。
そこで絨毯の汚れを落とす方法を、子どもたちにも教えてあげられるんですね。
いらだったり、パニックになれば、さらに問題を増やし、すでに不愉快な状況をいっそう深刻なものにしてしまいます。
「なんとかしよう。なんとかしなくては」という世界ではないんです。
その時、その場で物事を組み立てていくだけでいいんです。自我が入ってないと、それが可能なのです。
※スマナサーラ長老のインタビューをもとに池谷が構成しています。