駒澤大学では、道元を学んでいました。
日本人にとっても、哲学的で難解すぎると言われます。
しかし、難しいのは言語・言葉ですね。そこは現代日本語の訳がありましたからね。それを参考にしながらザーッと読みました。
西洋式思考パターンに持っていけば原稿はかけます。
しかし、道元はまず文章が成り立っていない。あなたね何を言いたいのか、と。
主語がサブジェクトがない。
道元の場合は主語・述語という流れじゃないんです。
ただ文字数を合わせて発音すれば、含蓄があるも、かっこいいというところもあります。
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普通の人が、『正法眼蔵』を読むと、全く何を言っているのか分からないと思います。
理解するためには、仏教世界で体験したことが必要なんです。
『正法眼蔵』に「山水経」という章がありますね。
「而今(にこん)の山水は、古仏の道現成(げんじょう)なり。」
山も川も風も、そのままで説法しているんだよと。
それを理解するためには、そういう世界に生きてなければ理解できません。
川の音で説法を思い出すのではありません。
川の音が説法そのもの、仏法そのものということです。
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それは一体何なのか。
神秘的で形而上学的な言葉です。
しかし意味はその通りの言葉なんですね。
修行世界で体験しておけば普通の話なんです。
道元は、師である如浄禅師に言われた「脱落脱落」という公案を持っていたんです。
しかし、「身心脱落」しても、「脱落脱落」にはいかなかった。
そこにどう達するのかということは、わかってなかったんです。
ものすごく精進したんですけれどもね。
その意味では、とても正直で素直なお坊さんにみえます。
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道元は、真面目なお坊さんだったいうと曹洞宗からは「師に対して失礼だ」という話になるんでしょうね。しかし、そのことは道元自身が言っていることです。
「修行に際なし」と。修行には終わりがないと言うのです。