過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり⑪ 何であんた方一番番低いランクの一小乗仏教をやっているんだ

スマナサーラものがたり⑪ 仏法学舎との出会いです。

「何であんた方は仏教でも、一番低いランクの低い小乗仏教をやっているんだ?」
私を指さして言いました。
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金田さんは、「私以上に仏教がわかる者はいない。自分こそが最高なんだ。大乗の菩薩道を歩んでいるんだ」という傲慢な態度でした。太っていて足が悪いこともあり、自分だけ椅子に座ったままです。私のほうは床に座らされました。

大乗仏教を勉強する人にとって、金田さんは仏教のことは何でも通じていて「すごい先生」として映っていたのかもしれません。しかし、ブッダの教えからすると、「なんだこの人は?」という程度でした。
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竹田倫子さんに、浅草の「仏法学舎」というところに、連れて行かれたときのことです。
竹田さんは、「テーラワーダの教えを本格的に教えてくれるお坊さんがいる」として、紹介したかったようです。

そこは金田道迹(かねだどうしゃく)という方の道場でした。元は仏壇屋を営み、独学して仏典を幅広く読んで出家したといいます。会場には20名くらいの方がいて、『法華経』の講義が始まっていました。
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「これが最高だとか、これは低い教えだ、間違っている」と主張するには、論理的な根拠と説明が必要なんです。精密なロジックが必要です。金田さんには、それがみえませんでした。

「私が一番偉い」と思ったとしたら、もう相当に頭が悪いということです。そもそも「私は知っている、わかっている。私だけが偉い」ということは、哲学的には成り立たないことなのです。
気の毒ですが、そこに陥ってしまうと、その穴からもう出られないんです。もうこちらから何も教えることはできないんです。

そういう人が、得意になって仏教の話をすると、自ら地獄に落ちることになるんです。
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金田さんは、中国の天台智顗の「教相判釈」を振りかざして、「法華経こそが最高だ」と言っていました。

天台智顗は、中国に渡ってきた仏典をすべてブッダの説いたものととらえました。ブッダが成道して、涅槃に入るまでの45年前後、最初に華厳経を説き、それから阿含経を説き、方等部、般若部、そして最後の8年の間に法華経、涅槃経を説いたと説明しています。いわゆるこれが「五時八教」です。
ブッダが教えを説いた時期を分類し、その中でどれが最高の教えであるかという、ひとつの判定方法です。
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天台智顗は『法華経』こそが最高である、真実であると主張しました。しかし、教えの勝劣・浅深を分判する事自体に無理があります。そもそも大乗仏教は、ブッダの教えではありません。

しかし、天台智顗の教えは、日本の比叡山天台宗において信奉され、権威あるものとして、後々日本仏教に大きな影響を与えました。
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天台教学のおおもとになっているのが『法華経』です。
法華経』自らが「この経こそ最高である。この経を誹ったりすれば地獄に落ちる」( 「譬喩品」「法師品」)などと述べています。
そのように書かれている時点で仏説ではありません。アウトでしょう。
作品としてみても『法華経』がいかに劣悪か、ということがわかるでしょう。
そこには、「私の理論はこうです。どうぞ、自由にディスカッションしてください」という開放性がないんです。
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いくら大乗仏教だと威張ってみても、客観的にみると「思考が止まっている」「矛盾している」「ロジックがない」「我が強い」など、いろいろなことがあらわになります。

それは、大乗仏典のどんなワンフレーズだけとってみても、わかることなんです。しかし信仰の世界に入ると、そういったことがみえなくなります。