過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

一斉教育ってどうなんだろうか

この子の教育は、どういうのがのぞましいのかなあ。子どもができて、いろいろ考える。いまのような学校に通わせるのがいいのか、どうか。といっても、この山里では、それしか選択肢はないけれども……。

おんなじ年齢の生徒がひとつ教室で、一斉におんなじことを習う。前にならえ、右向け右、休め。チイチイパッパ的な学習方式。息苦しい。抑圧が大きい。そういう日本の教育って、どうなんだろうか。

一斉教育だと、能力のある生徒は、先に進みたいのに進めない。時間を持てあます。いっぽう能力がない生徒は、落ちこぼれてしまう。成績のいい生徒は、へんな優越感。成績の悪い生徒は、へんな劣等感。どちらも、健全じゃあない。

自分の能力、進み方にあわせた教育があるといい。年齢はバラバラでいい。たとえば「公文式」のように、自分のペースでどんとんと進んでいけるやり方。できなかったことが、ここまでできるようになった、と。他人との比較よりも、自分の中での比較をたのしめること。

学ぶということはここでおしまい、完了ということはない。際限がないのだから、どんどんと興味に応じて、知的好奇心な応じて進んでいけるのがいい。その意味では、学習指導要領みたいなものに沿って進まなくてもいいのかもしれない。インターネットを活用すれば、世界の知的情報が自分で入手できる時代なのだ。

ただ、日本の教育でもっともたいせつにされるのは、協調性なんだろうな。みんなとおんなじことができることが求められる。それは、勤勉でチームプレーのできる労働者を育てることが、大きな目的だったということか。

しかし、協調性の大切さは、労働を取り入れる。田んぼや畑の作業。体育実技。スポーツ。野外学習など。ボランティアなど、いろいろと考えられる。そんなフリースクールがあるといいんだけど。