マインドフルネスは、「いまここ」にいること。つぎつぎと頭のなかに生まれてくる「考え」に動かされることなく、それをただ観察していく。「感情」も観察していく。痛い、冷たい、熱い、快適なもの苦痛なものでも。「身体の動き」も観察していく。観察あるいは、気づきといってもいい。いいとか悪いとか、判断しない。判断しようとしている自分にも気づく。そして判断しない。
……と書いたが、暮らしのなかで実践するのは、なかなかむつかしい。ひとりでもくもくと単純作業を繰り返すような仕事だと、やりやすい。農業などは、耕したり種を撒いたり収穫したり、こういうのはよさそう。だが、いろいろな人と対応するような仕事だと、むつかしい。
「子育てのマインドフルネス」はどうだろうか。幼い子は、お母ちゃんのそばを離れようとしない。すぐに泣く。まったく思い通りにならない。「人生思うようにならない」という訓練にはなる。けれども、瞬間瞬間に気づいているというマインドフルネスのトレーニングには、なかなかむつかしい。
妻は言う。「マインドフルネスよりも、愛情をもって接するといいのがたいせつなのかも」と。愛があれば、なにをしてもオッケー。いい悪いの判断をしない。すべてを許す。マインドフルネスの子育てだと、知性に重心がいきやすい。たいせつなのは、愛情だと。
そんな気もする。ここから飛躍するけど、ブッダとイエスをみていると、なんとなくわかる。ブッダは、終始、知性だ。マインドフルネス。覚めている、冴えている、執着しない、涼やかだ。イエスは、愛する。見守る。耐える。ゆるす。そんなイメージがある。
心を磨く、心を清めていく道として、つねにいまここに気づいていく方向、そして愛していくという方向があるように思った。そして、この二つは、相反するものではなく、互いに支え合っていくのだと。