過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

山里で暮らすには現金収入が必要なのだが

竹細工の梅沢さんと若林くんが来訪。梅澤さんは10代で崖から落ちる怪我で片足を失い、以来、ひとりで竹細工を修得して、なりわいにしてきた。完全有機農法でお茶も栽培している。茶工場ももっている。84歳になる。

この方には、いつも学ばされる。人柄がすばらしい。つねに「礼」がある。そして謙虚。言葉遣いといい態度といい、けっして偉そうなことはない。卑屈になることもない。

かれが暮らしている集落は、その名も川上の外山(はずれやま)といって、この山里から1時間もかかる。いまは4世帯しか暮らしていない。しかも、みんな80代だ。そのまま住めそうな空き家は、いくつもあるという。しかし、なんの問い合わせもないという。

なにしろ浜松駅まで、2時間半。ちかくに店もない。診療所もない。学校もない。病を得たとき、まちなかに通うのはたいへんだ。

けれども、そんな過疎地でも、都会から移り住みたいというひとはいるのはたしかだ。なので、すこしずつ紹介していきたいと思う。

ただし、暮らし続けるには、現金収入がなくちゃいけない。山里暮らしの最大の問題は、仕事がないこと。働くところがない。なにか手に技があり、フリーランスで稼げることができれば、なんとかなると思うが。

かつて山里は栄えていた。豊かだった。まず第一に、林業が盛んだったからだ。戦争で家が焼かれ、大量に復員してきても家がない。復興の第一は、家づくりだ。依頼、ずーっと建設ラッシュがつづく。国産のスギ、ヒノキがどんどんと売れた。山があれば、大資産家だ。山主は、地元で多くの人を雇用した。伐採や搬出などの仕事がたくさんあった。また、林業とともに、お茶やシイタケの栽培も盛んで、高値で売れた。

それがいまとなっては、林業はまったくだめ。伐採しても労賃が出ない。だから放置されている。お茶もシイタケも、どんどんと価格が下がっている。そして、高齢化がすすんで、お茶をやめたいというひとばかりだ。

どうにかならないんですかね。どうにもならないね。時代の流れだね。という話になった。それでも、まだ春野町として独立した自治があれば、予算も権限も使って、知恵を絞っていろいろ手を打てるかもしれない。しかし、浜松市と合併してしまったあとでは、予算も権限もなく、独自性も発揮できない。

しかし、それは仕方がない。自分たちが、選択した道だから。合併しないで、なにも手も打たなかったら、過疎高齢がさらにすすみ、医療費も増え、自然災害の復旧工事や老朽インフレの工事費用も莫大となり、自治体は破産してしまうかもしれないのだから。