ながい習慣、ならわしで、なんとなく死んだらお坊さん。死んだらお経ということになってしまっただけだ。いわばひとつの風景。
そうして、その歴史は、たかだか数百年にしか過ぎない。庶民の仏式の葬儀は、寺請制度が作られた江戸時代以降のことだろう。
ただ遺族が葬儀を務めるのは、そうはいっても、むつかしい。みんながお経をよめるわけじゃあない。やはり恰好もつかない。親戚やきょうだいが反対する。波風が起きる。やっぱりお坊さんじゃないとねえ、と。
それはそれで、いい。お坊さんのほうが、やはり雰囲気がでる。厳粛になるような気がする。
ただたいせつなことは、このお坊さんに葬儀をしてもらいたい。この和尚に、お経をよんでもらいたい。そういうお寺に出会えるかどうか、だ。なので、生前おつきあいしたいお寺をみつけておきたい。
しかし、ここがむつかしい。ひとつは、そういうお寺を知る機会がないこと。お坊さんと出会う機会が少ないこと。
そして、もうひとつ大きな課題がある。菩提寺との関係だ。
やはりどこかの檀家になっているから、気に入ったお寺さんがてきたとしても、いままでのお寺と離れられない。いまのお寺に葬儀をしてもらいたくないと思っても、離れられない。
菩提寺にお墓があるからだ。いわば「墓質」になっている。お墓の移動にも費用がかかるし。
また、離壇したいというと、離檀料を200万円要求されたという人もいた。厄介だ。
「神社・寺カフェ」を企画・推進してきて、いいお寺との出会いが増えたと喜んでくださる人がおおい。こういうお寺さんとご縁を持ちたい、と。そういう動きが出てきている。
しかし、いまのお寺と離れるにはどうしたらいいでしょうか。そういう相談をよく受ける。そのことは、また論じていきたい。