過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

その日一日だけで十分、という生き方

死の瞬間というものは、それは安楽なのかもしれない。

どんな人生を歩んだとしても。どんなことをしてきたのか、どんな栄誉があったのか、どんな地位があったのか、どんなことを成し遂げてきたのか。そういうものとは関係なく。

人はみんなやすらかに満ち足りて、死んでいくのかもしれない。まあ、実際そうなるかどうかは、自ら体験しないとわからないことだが。

しかし、死の瞬間が安楽であるとしても、それは先の話だ。たいせつなのは、きょうの安楽、そして明日の安楽。いまここにおいて、安楽でないと意味がない。

安楽でないのは、わずらいがあるからだ。心配が、不安が、懸念が起こる。あるいは、後悔が起こる。落ち着かない。

心配がない、後悔がないという生き方が、安楽といっていい。そのために、いろいろ準備する。「備えれば憂いなし」だ。先々のことを考えて段取りする。

しかし、いかに準備しても、うまくいく保証はない。やはり不安は起こる。なにしろ、ものごとは自分の思うようにならないからね。また、なにが起きるのかわからないのが人生。

さて、そういう不安と、どうやってつき合っていくかということになる。

いまここをいかに、安らかに生きるか。そこにこそ、仏教の要諦がある。宗教の要諦がある。そのための、瞑想であり、座禅であり、念仏であり、先祖供養であり、加持祈祷であったりする。

エスは言う。「明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ伝)

その日一日だけで十分、という生き方。よおしこの一日だけでもしっかりやろう。この午前中だけでもいい。この一時間だけでも。そういう積み重ねということになるか。

いまのこの目前のやるべきことに集中する。達成に全力をかたむける。そのことは、自分の心を磨き上げ、散乱する心を制御し、人格を育てることにもつながる。そこに安楽もある、と。