過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

痛みや苦しみをどのように乗り越えていくか

①痛みや苦しみを、鎮痛麻痺薬、原因探しで超える
②祈り、信仰、念じることで乗り越える
③自分カルマとして受け入れる
④痛みや苦しみそのものを、内側から洞察していく
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痛いとか苦しいとか、現実に起きる。
どのように対処するか。

鎮痛剤を飲んで、麻痺させるという方法もある。痛みや苦しみは内側からのサイン・メッセージだからそれを無視することになる。時に必要だが、そればかりだとますます症状は悪化して副作用が起きる。

原因を見つけ出して叩き潰すという方法もある。ただ、しっかりとした原因がみつからない。あれかもしれない、これかもしれない。たくさんありすぎてわからない。
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祈るとか拝む、念じるということがある。助けてほしいと、偉大なる存在、神とか仏にお願いする。それなりに効果があると思う。ただ、至心に真剣でなければ効果はないだろう。

わたしの場合、そうした信仰があるわけじゃない。あれもこれも、宗教を体験してきたがゆえに、これだと決められる存在はないんだなぁ。
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痛みや苦しみに対しては、逃げずに直面するしかない。そう思い定める。それが一つのありよう。

さて、どのように直面するのか。

ひとつは、この痛みや苦しみは、自分の過去のカルマ(身口意)によっておきたものであり、自業自得である。だがそれは、過去の悪業とか借金を返ーような意味よりも、人生をより深く次元に導くための課題・試練として現れている。そう思うようにする。

まあしかし、それは、なかなか自己欺瞞・自己洗脳というのか、無理に意義付けするとい面もある
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で、やはり究極は、痛みや苦しみそのものを徹底して味わい尽くす、内側から洞察していく。微細に事細かく、瞬間瞬間に味わう。それが、王道かな。

痛みは痛みとしてただ受け取る。苦しみは苦しみとして受け取る。
私が苦しんでいる、私が痛みを感じている。
もっと微細に観ていくと、私の身体が苦しいと感じている、私の身体が痛いと感じている。あるいは、私に身体に痛みが起きている。私の身体に苦しみが起きている。
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あるいは、痛みがある。痛み、痛み。苦しみがある、苦しみ苦しみ。
そのように内側から客観的に洞察して観ていくと、さらに緻密な世界に行くかもしれない。

痛みはどのよう起きているのか、苦しみはどのように起きているのか。その生滅変化を見ていくことなる。それぞれ波動があるからね。あるいは、響き合いを観ていく。

そうなってくると、痛みや苦しみを素材にした洞察(insight)の瞑想になる。まさにヴィパッサナー(ヴィ=よく、パッサナー=観る)である。