過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

日本で教えを伝えてきたのは、なにか日本に脈があったと感じたのかどうか

(続き)「池谷さんが期待するような感動的な面白い話は、一つもないんです。とってもつまらない理由で日本にいたんです。あまりにもつまらないんです。
駒沢大学での研究は一応終わって、荷物は全部船のコンテナに乗せて〝さあ帰るぞ〟と、もう完璧に引っ越すことに決めていたんですから。」
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スマナサーラ長老が日本に来られて現在に至るまでの活動をロングインタビューで聞いていった。
こうして日本で教えを伝えてきたのは、なにか日本に脈があったと感じたのかどうか。
日本にいて仏教の話をしても日本人にはわからないと思ったり、いやそれでも「少しでも仏法を分かる人がいるだろうから話はしていこう」思ったのか。
そのあたりから聞いていった。
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「日本にいるときには、あちこちで講演の依頼を受けて、でかけていたんですね。
私の活動が知られるようになったのは、「平安会」という、初期仏教を学ぶ研究グループで講演したことがきっかけです。

そのメンバーは、退職された70〜80代の方たちが中心でした。元銀行のトップの人たちとか、いわゆる知識あるエリートばかりでした。とても理解力のある方たちで〝もっと仏教のことを話してください〟と頼まれました。

講演会では、聴衆の中にソフトウェアのエンジニアの方がいたんです。その人とお母さんが真面目に瞑想をしました。日本にもブッダの教えを学ぼうとする仲間ができたと、私は喜んだのです。

そこで、私の書いた4ページほどの英語の文章を渡しました。〝苦・無常・無我〟を説明するものでした。もともとは、スリランカ人のエリートグループ向けに説明するために書いたものなので、固くて難しい文章でした。

彼は、その論文の中の〝無常〟というセクションだけをとって、うまくまとめて日本訳にして朝日新聞に出したんですね。ほんのちょっとした文章です。

その記事をたくさんの人がそれを読んで、マスコミからもいろいろ問い合わせがありました。そこで、私は名前が売れてしまったんですね。それは私が40歳のときでした。」
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竹田倫子さんが勉強会に長老をお呼びして、ブッダの話を学ぼうとした。
ブッダの教えを学んで実践したい」というので、「じゃあ、やりましょうか」ということになったんです。」

私はその頃、竹田さんに「すごいお坊さんがいるから」と聞いて、勉強会を訪ねた。新宿のマンションの一室だった。

そこに行くと、長老がおられて、説法されている。聞いている人はほとんどが女性。子育て中のお母さんたち、すやすやと眠っている赤ちゃんもいた。
小さな子どもたちは、自由に動き回る。

子どもたちは自由だ。袈裟をつかんで、長老の肩の上や、ときには頭の上によじ登ったりしていた。
そういうなかで、説法しておられた。話がとても日常的でわかりやすくて深い。
日本のお坊さんでこんな人は見たことがない。「これはなんと見事なことか」と、感心した。
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竹田倫子さんのお姉さん(小泉多希子氏)の運営する「コミュニティカレッジ」で講演を頼まれた。その会は、天皇家三笠宮が顧問をしていて、いろいろな文化人を呼んでは講演会を催していた。

最先端の物理学者のフリッチョフ・カプラー(物理学者、システム理論家。現代物理学と東洋思想との類似性を述べた『タオ自然学』が世界的なベストセラー)を招いたりしていた。クリスチャンの渡辺和子さんとか、陽明学の思想家とか。

講演だけではなくて、ヴィパッサナーの実践を教える時があった。細野さんや赤塚さん、和田さんという三人を指導したのが、日本では初めてのことだったと思う。私は、実践には加わらず、脇で眺めていただけであった。
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新宿の公民館を借りて、講座や実践会も開いていた。その時に、地橋秀雄さんやミャンマーで出家して帰国したばかりの井上ウィマラさんも来ていた。地橋さんは、長老のアドバイススリランカの瞑想道場に行って瞑想体験をしていた。後にヴィパッサナー瞑想協会をつくった。(続く)