過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いちばんすごい修行は、ここという現実、いまという時。直面している課題、難問。

極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず」(日蓮:報恩抄)
 
逆境にある友人と語っていて、日蓮のこの言葉を思い出した。
 
修行の場が整ったゆうゆうとしたところ(極楽)で、修行したいと思うことがある。けれども、そうしたところで百年修行したところで、この現実世界(穢土)のたった一日生き方は、それに匹敵する。いやそれ以上の功徳がある。そう読んでいる。
 
現実は、いろいろうまくいかないことばかり。暮らしそのものがたいへん。病も起きる、仕事もたいへん。家庭や親子、仕事の不和も起きる。やがて死に至る道がある。
 
仏教には、いろいろな修行がある。お経を読むとか、真言や呪文をとなえるとか、護摩(ごま)を焚くとか、仏を礼拝するとか、坐禅するとか。それらは、それぞれすばらしい。
 
しかし、いちばんすごい修行は、ここという現実、いまという時。直面している課題、難問。そのことに飛び込むこと味わい尽くすこと。被害者にならず、自分を磨くチャンスととらえていく。心を磨くありがたい機会ととらえていく。それこそが、ものすごい修行になる。そう自分に言い聞かせている。
 
以下は蛇足(だそく)だが。
 
この書は、伊豆や佐渡に流され、なんとか落ち着いて庵をもった山梨の身延山の山中で書かれたものだ。
 
前の言葉は、有名だ。「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」。
 
後の言葉はこう続く。「正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。」
 
日蓮のこの言葉の前後を読むと、いささか自我意識が強いなあ、形式論理的だなあと感じるところはあるが。それはそれで、日蓮の生き方を支える確信、使命感、歴史意識によって支えられている。その生涯を思うと、共感するところはある。