「極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず」(日蓮:報恩抄)
逆境にある友人と語っていて、日蓮のこの言葉を思い出した。
修行の場が整ったゆうゆうとしたところ(極楽)で、修行したいと思うことがある。けれども、そうしたところで百年修行したところで、この現実世界(穢土)のたった一日生き方は、それに匹敵する。いやそれ以上の功徳がある。そう読んでいる。
現実は、いろいろうまくいかないことばかり。暮らしそのものがたいへん。病も起きる、仕事もたいへん。家庭や親子、仕事の不和も起きる。やがて死に至る道がある。
しかし、いちばんすごい修行は、ここという現実、いまという時。直面している課題、難問。そのことに飛び込むこと。味わい尽くすこと。被害者にならず、自分を磨くチャンスととらえていく。心を磨くありがたい機会ととらえていく。それこそが、ものすごい修行になる。そう自分に言い聞かせている。
以下は蛇足(だそく)だが。
前の言葉は、有名だ。「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」。
後の言葉はこう続く。「正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。」