過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

あゆむ一歩一歩が先祖供養のような……

「先祖供養」ってみんなしているんだろうか。

彼岸のお墓参りにお盆、仏壇があればチーンと鳴らしてお線香、とか。いや、仏壇などない家が多いだろう。檀家寺は、遠方にあってなかなか行けないとも思う。しかし、気持ちはどこかにある。

どういうことが「先祖供養」になるのか。それがわかりにくい。先祖に感謝すること? そのかたちの表れとしての、お墓参り。お坊さんにお経をよんでもらうこと?

そもそも、「先祖」がいるのかいないのか。

こうして自分が生まれたのは、親があり、そのまた親があり……と考えれば当然、先祖はいる。ものすごい数でいる。10代、20代とさかのぼれば単純計算で天文学的な数字になる。

その「先祖」はどこにいるのか? みんな亡くなって、いない。無になったのか。いるとしたら、お墓にいるのか。先祖がうようよお墓にいるわけがない。

じゃあ、浄土だろうか。浄土ってたくさんある。極楽浄土? 霊山浄土? 密厳浄土? よくわからない。

「あの世」あるいは「霊界」にいると思えばいいのか。「この世」とは次元の違うところにいる、らしい。

そこで、いつもわたしたちを見守ってくれている。なにかと助けてくれている、らしい。そんな思いが、日本人には連綿と続いてきているのだろうか。

あるいは、この世に生まれてきているのだろうか。あの世とか霊界にしばらく休憩して、この世に生まれてくる。そうして、子孫に近しい縁のある人として現れる。

たとえば子供として、つれあいとして、友人として、ふと出会う人として。それらは、みんな先祖の生まれ変わりかもしれない。そういう考え方もできる。

まあしかし、要するにわからない。実証できない世界。思いの世界、ひとつの信仰の世界ではある。

ぼくは、といえば。朝晩、仏さまに対して、ゴーンと鐘を鳴らして拝む。ときにお経、お題目、念仏、そして瞑想。そのとき、縁ある人のしあわせを願う。先祖に感謝を捧げる。

そうして、うちのあかりは二歳だが、母の生まれ変わりのような気がしてならない。顔もよく似ている。なので、母の供養という気持ちで、あかりと接している。毎日、肩車して散歩するのだが、母を背負い、そしてまたたくさんの先祖を背負って、ともに歩んでいる。そんな気持ちでいる。あゆむ一歩一歩が先祖供養のような……。