過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「先祖供養」の三つのポイント

先祖を大切にする。先祖とともにある暮らし。それが、日本の宗教、信仰心の中核にある(あった)と思われる。生き方を説いているはずの仏教も、徳川時代の寺檀制度のもとで、葬送と先祖供養を柱とした仏教に変容していった。いまもその流れにあるとおもう。

「先祖供養」といっても、なかなか曖昧な言葉で、実体がとらえにくい。そこで、三つのポイントをかんがえてみた。

一つ。「供養すべき先祖は、ものすごい数」だということ。先祖というものは、数名、数十名ではない。何千、何万、何十万人という先祖がいる。計算すると10代前で2,000人を超える。妻の分を入れればその倍。きょうだいをいれれば、さらに数倍。(実際には、同族婚などで先祖が重なっているから、そんなには多くはないが)。

二つ。「供養されるべき先祖ってどこにいるのか」ということ。
死んだら「無」と考えれば、先祖などいない。先祖供養は意味がないことになる。

転生したと考えれば、すでに先祖はいない。いま出会う人たちが先祖のすがただ。先祖はここにいる。

いや、亡くなったら霊界とかあの世とか浄土とかにいる。先祖霊となって、見守ってる。これが、日本的な考え方だと思う。

で、問題は次だ。転生できずに、霊界に行けずに、この世に未練をもってさまよっている先祖がいるかもしれない。仏教的にいうと「餓鬼道」に堕ちてぬけられないひとたち。そういう存在、すなわち〈成仏していない先祖〉に対して、供養が必要だという考えはあるかもしれない。

三つ。「救ってほしい先祖がいるとしたら、どうしたらそれか可能か」ということ。いわゆる、お経をよんだり、墓参りしたり、戒名つけたりすることが供養になっているのかどうか。