過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラ長老に供養についてお聞きした

一昨年、スリランカスマナサーラ長老にインタビューした。多岐にわたる内容だが、先祖供養について、一部ご紹介します。

──先祖供養ということは、どう考えたらいいですか。

ひとは誰でも、先祖に感謝の気持ちをもっているでしょう。テーラワーダの文化でも、同様です。先祖供養とは、お墓まいりすることじゃないんです。盆踊りをやっても先祖になにも通じません。一年に一度死んだ人がこの世に下りてきて、食べ物を奉納するというのは仏教的な考えではありません。

たいせつなことは、回向することなんです。自らの善行功徳を向けることです。先祖があればこそ、わたしというものが生まれたのです。ですから、お世話になりました、と回向するんです。

わたしたちは、朝晩、いつでも供養するんです。先祖供養とは特別な行事じゃないんです。お経をよむとき、かならず先祖供養が入っているのです。

──なにしろたくさん先祖がいますよね。なかには苦しんでいる先祖がいるかもしれません。

餓鬼道のような苦しみの世界にいる先祖もいるんですね。餓鬼道は、まったくなんの食事ももらえない、牢獄のような世界なんです。飢えて苦しい。すでに死んでいるのだから、飢えの苦しみはつづきます。

そういう存在は、ものすごくたくさんいるのです。恨みや憎しみがあって、執着が強いとそういう世界にいきます。そして、その世界から抜けられなくなってしまうんです。

──そんな先祖には、どうしたらいいんでしょうか。

彼らは供養をもらわないと、苦しみの世界から抜けられないんです。供養を受けられるならば、餓鬼道から救われることがあります。

この餓鬼道という刑務所は、「差し入れ」しか、受け入れてないんです。その差し入れは、子孫しかだめなんです。そこで、子孫が回向することになります。

──たくさんいる先祖に、どのように供養したらいいかということですが。

問題は、先祖というのは誰かということです。いまわたしたちは人間でいるんだから、わたしたちの親戚が先祖ですね。いまの自分の〈いのち〉を形成させて育ててくれたわけです。

無限に繰り返す輪廻の中で、わたしたちには、数えきれないほどの先祖がいます。今世でもたくさんの親戚がいます。だから無数の生命が、差し入れが必要な状態で待ちかまえているといってもいいでしょう。

どうして親戚から供養を受けるのかというと、そこには気持ち的なつながりが深いからなんです。しかし、気持ち的につながりがなくても、回向は向けられるんです。

仏教では、「供養を受けるひとがいれば、誰でもいいんだから幸福になってください」というふうに考えるのです。

だから、生きとし生けるものに回向するんです。すべての生命に回向するんです。回向された生命が、それを受けるか受けないかは、あまり気にしません。誰でもいいんだから、功徳をとってくださいと回向するんです。また、そのことで、わたしたちは功徳を積むことになるのです。

くわしくは、「スマナサーラ長老の仏教塾」(サンガ 2016年4月発刊)。