過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「手づくり葬」について

「手づくり葬」について。(ちょっと過激バージョンです)
いま日本の葬儀の平均費用は200万円余である。立派な戒名やら、たくさんお坊さんにきてもらうとか、そういうことにお金をかければ、限りなく費用はかかる。
戒名とは、戒律を保って仏弟子になるときの名前である。仏教を信じているわけでもなく、死んだからといって、戒名をもらっても意味はない。
そんなものに、何十万円も何百万円もかけるなんて、仏教にはあらず。お釈迦さまは、きっと嘆く。あきれる。
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根本は、「故人を偲ぶ心」である。なにも盛大にやる必要はない。見栄を張る必要はない。義理で葬儀に来る人など必要ない。身内だけ、家族だけでいい。心をこめたシンプルな葬儀こそがすばらしい。
いまの葬儀のありようだと、親戚やら地域の人やらたくさん呼んだりすると、そちらで忙しい。費用もかかる。香典に対して香典返し。そしてまた、集落の人たちに対しての接待など、心が疲れる。故人を偲ぶ心から外れていく。
シンプルでいい。シンプルこそがすばらしいとも思う。祭壇やら位牌も必要ない。お経だって必要ない。
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お坊さんをよばずとも、自分でお経をよめばいい。ぼくはそうして母をおくった。とくにお経である必要はない。詩でも万葉集でもいい。自分の言葉でいいと思う。
そもそも、死者の供養のためのお経など、世に一つもない。お経とは、「生きるための教え」である。
柩だって、自分の創意工夫で作ればいい。骨壷も自分で作っておく。墓だって特に必要ない。手元供養として、家の中に清浄な場を作ってもいい。
遺体の搬送は、霊柩車でなくていい。自分のクルマで運べる。法律的には、死亡診断書を持参していれば、遺体搬送は可能なのだ。
浜松市の場合、市民であれば火葬にかかる費用は、無料である。
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お墓など、ほんとうに必要だろうか。遺骨にたましいが宿るわけがない。もしも、やどっていたら、たいへんだ。お墓の下に閉じ込められ続けてしまうことになる。
そうして、お墓を作ろうとしたら、永代使用料やら墓石やら、何百万円もかかる。お金に余裕のある人は、そうすればいいのだが。
ぼくは、畑でも川でも海でも、まいてもらえればいいと思っている。法律的には、いま「散骨」に対しての規制はない。撒き方のルールすらない。撒く人のモラルにまかされている。ただ、地方によっては条例がある。墓地以外に埋葬すると墓埋法違反になる。
そもそも遺骨があるから、やれお墓だなんだと、ややこしい。近頃は、遺骨をもちかえらない、火葬場で処理してください(産業廃棄物となる)という流れも出てきている。
関西では、火葬場からもちかえる遺骨はほんの一部だ。あとは、産廃にされてきている。
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くりかえす。供養の基本は、心である。わざわざ、かたちだけの聖職者にやってもらう必要はない。高いお布施を出して、お経を読んでもらい、立派なお墓を作って、盆と彼岸に墓参りに行く。それだけが供養とおもっていたら、きっとちがう。
供養とは、自分自身で行うこと。日々、心をこめて、つねに亡き人、先祖を偲べばいい。
もしも死後に何らかの存在があるとしたら、遺族の心こそが通じるのだと思う。そうした心構え、拝む心を伝えるのが、本来のお坊さんの役目であると思っている。