自分がこうして生きていられるのは、多くの人の助けがあるからだ。産み育ててくれた親がいたからだ。そして親にはまた、その親がいたからだ。こうして限りなく遡る先祖の系譜に思いをいたす。それはごく自然で大切なことと思う。
墓参りはたいせつ。先祖供養はたいせつ、とは思う。しかし、先祖をしのび感謝をささげるのに、そもそもお墓が必要なんだろうか。
ひとは死後、あの世とか霊界にいるのかどうか、だれもわからない。先祖が、あの世にいて、子孫を見守っているのかどうか、そんことはだれもわからない。
たんなるモニュメント、記念碑としてお墓は存在する。遺骨の収納場所としてだ。しかしだ。死後もなんかのいのちが存続するとしてもだ、そもそも「お墓」に、故人が先祖がお墓にいるわけがない。あるいは、自分が死んで、死後も自分が存在するとしても、ぜったいにお墓を居場所にはしない。どんなに豪華な心地よいお墓を作ってもらっても、そんなところにいたいとは思わない。あんなに、狭くて暗くてじめじめした場所は、なんにもおもしろくない。牢獄のようだと思う。
お墓には故人はいない。いるわけがないと思っている。だが、いないとしても、墓参りすることで、そのことが霊界などにシグナルを発して、先祖がそこにやってくるのだろうか。墓がいわば依代(よりしろ)になるのだろうか。いやどうもそれも、考えられない。
そこに先祖がいないかもしれない。かし、お墓参りをすることで、なんとなく安らぎがある。義務を果たしたような気になる。先祖を偲ぶことができる、そのことはわかる。
では、そのためにお墓が必要だろうか。必要ないんじゃなかろうか。
むしろ、なにかの記念碑、シンボルでいいと思う。家に祭壇をもうけて、そこに小さな「手元供養塔」みたいなものがあればいい。それこそ、高さ10センチくらいもの。木彫りでも石でもなんでも、位牌の一部かあればいいのかもしれない。
遺族は、墓参りなどしなくてもいい。そのシンボルに対して、灯明をつけ香を焚いて、しばし瞑想すればいいのだと思う。あるいは、数行の簡単になお経てもいいし、歌でもいい。
それは安易だ、横着だという批判もあるかもしれない。しかし、手元に供養塔があり、そこを日々、浄化して感謝の心を捧げる。年に一度に二度の墓参りに行くよりも、よほど心のこもったことではないかと思う。日々、墓参りであるから。
ぼくは死んでもお墓はいらない。墓参りしてもらいたいとも思わない。ましてや、墓参りしないからと、子孫を恨むようなことは、したくない。遺骨もいらない。すべて煙にしてもらいたいと思う。あるいは、川か海などに流してもらいたい。
お墓はいらないというひとが増えてきたのは事実だ。そのことをねシンポジウムで考えていきたいところだ。