過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

わずかなお金で救える命がある。そういうところにお金を役立てるほうが、供養になる。

静岡に用事があった帰り、友人のお寺を訪ねた。20年来の友人である。ぼくの日頃の主張よりもはるかにラディカル。ぼくがこんなことをいえば、お坊さんたちから非難轟々となると思うが、これは現役のお坊さんが自ら言うところが、迫力だ。以下、かれの語るところ。

もうお寺は先がない。いままでの檀家制度に胡座をかいていては、みんなが離れていく。お寺が選ばれる時代になっていく。町の商店が次々と廃業になっている。それとおなじように、時代にあわないお寺は、潰れていかざるをえない。

お寺は死んだ人のためではなく、生きている人の役に立たなくちゃいけない。

お経が必要、戒名が必要、お墓が必要というお坊さんは、じつのところ、自分たちが食うために言っているに過ぎない。供養の本質がわかっているわけではない。

坊さんがお経をよむことが供養になるのではない。あくまで供養するのは家族、遺族である。坊さんのお経は、みんなの心が供養に向かえるように、「場」を整えることに意味がある。

戒名などで、故人の成仏がきまるわけがない。お墓に先祖がいるはずがない。遺骨も不要である。お墓も位牌も、故人をしのぶためのシンボルである。かならずしも、いまのようなお墓や位牌が必要とは思わない。

たとえば、父親がいつも使っていた万年筆をたいせつにする。万年筆でつかうとき、親父のことを偲ぶ。それが供養になる。墓などなくてもいい。たとえば、遺灰をペンダントに入れて、いつも身につけるというような供養の仕方もある。

お坊さんにお経をよんでもらったところで、供養にはならない。むしろ、生きている人のために奉仕する、役に立つ。そのことが、回向として先祖に向けられて供養になる。たとえば、発展途上国で、ほんのわずかなお金で救える命がある。そういうところにお金を役立てることのほうが、供養になる。

こんな話を一時間、かわした。かれはこういうことを檀家に伝えて、寄付を募っては、タイやラオスで学校建設、医療品の供給など、長年、活動している。お寺の仕事もしながら、お坊さんを中心したNGOの理事長として、長年、海外で活躍されている。タイ国王から感謝状をもらうほどの実績がある。