墓について、探求しているところだが、日本仏教の祖師たちは、自らの埋葬のされ方、墓について、どのように述べているだろうか。すこし調べてみた。今回は、日蓮、親鸞、法然の三人。
日蓮は、このように語ったとされる。「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」(波木井殿御報)。
病を得て、療養のために常陸の湯に行く途中、池上で亡くなった日蓮であるが、最後の手紙に書いている。伊豆や佐渡に流罪され、ついの住処として、身延山中に九年間、庵を結んだのであった。その日蓮の外護の信徒である地頭の波木井実長に対して感謝のことばと、墓について述べている。
どこで死んだとしても墓は身延の沢に造っていただきたい、と。日蓮は病が重く、字も書けなかった。弟子の日興が代筆した。その書には自らのサインも書き加えられないほど、重篤であった。(なので日蓮の真意であったかどうか、すこし疑わしいとぼくは思っているが)
親鸞はどうであろうか。遺言とされるものに「某(それがし)親鸞閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」(自分の遺骸は鴨川に流して、魚の餌としなさい)』(改邪鈔)とある。
鴨川に流して、魚の餌にせよ、と。この言葉、いいですねぇ。その師匠の法然の言葉もすてきである。
法然の死に臨んで、法蓮房という弟子が問うた。「いにしえより高僧にはそれぞれ御旧跡があります。しかし、上人は寺院を一つもお建てになっておりません。上人が往生なさった後、何処を上人を慕う場所に定めればよろしいのでしょうか」と。
法然は答える。「あとを一廟にしむれば遺法(ゆいほう)あまねからず、予(わ)が遺跡(ゆいせき)は諸州に遍満すべし。ゆへいかむとなれば、念仏の興行は愚老一期の勧化なり。されば念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず、海人(あま)漁人(すなどり)がとまやまでも、みなこれ予が遺跡なるべし」(法然上人行状絵図)
私のあとを一つに限れば、私が勧めた念仏の教えは弘まらない。私の遺跡は全国に遍く存在する。念仏は私が一生を通して世の人々に勧めたものである。人々が念仏を称えている場所ならば、身分の差別を論ずるまでもなく、それが海で魚貝を捕って生計を立てる漁師のあばらやであっても、全て私の遺跡なのである…。
念仏の沸き起こるところ、すべてわが遺跡である、寺院である、と。なかなかすばらしい言葉ではないか。