過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

梯實圓和上のお話から

そのお顔を拝見して、ああ、すてきだなあと思った。浄土真宗本願寺派の梯實圓(かけはし・じつえん)和上。

その名前だけは知っていたが、内容が難しいので敬遠していた。YouTubeで講話を聞かせてもらったが、なかなかよかった。

真宗の教えは、門外漢のぼくにはむつかしい。なにしろ、はじめから救われているという教えだからね。

如来によって、すでに救われている自分に気づき、その報恩感謝の響きがお念仏という。これは難しい。

ま、教義はともあれ、そのお顔がいいのでご紹介。おはなしの一部をテープ起こししてみた。以下。講話の内容。(5年前の投稿だが、シェアしてくる方がいたので再掲載。読み直して味わっている。)
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できるだけ簡素にして、簡素な人生を生きたらいいんだから。すこしずつふるい落としながら生きていけばいい。そうおもて、わしは生きているけどね。

3年前には気がつかなかったけど、いまになってありがたい言葉だったんだなあ。10年前に聞いたときにはなんともなかったけれども、いま聞いてみるとこの言葉はありがたいなあ。そういう気持ちが起きたとき、それだけ成長している。

3年かけて成長した、10年かけて成長した。そうやって死ぬまで育ち続けていく、そういう人生がある。それが仏法を聴聞しながら、仏法によって育っていく。その年相応に育てられ続けていく人生でしょうね。

「死なば浄土にまいりなん」(法然上人の教え)

死ぬということは終わりじゃない。新しい人生、悟りの生のはじまりだ。仏陀としての生涯の始まりだね。死ぬんじゃなくて、生まれていくんだ。それを「往生」といわれていますんや。

これ、ええ言葉でんなあ。悟りの領域に生まれていくんだと。そういう人生観というものをもつ。

その人には、死はないねえ。死なんか存在しない。生まれていくということがあるだけだ。

この世に生まれてきたのが誕生。お浄土に生まれていく、これを往生という。わたしの中には死は存在しません。
と、こういって言うてみたらどうですか(笑)

生と死を超えたということは、生と死もなくなったんじゃなくて、生と死を全うすることができるわけです。死ぬことがムダなことじゃない。死ぬことに豊かな意味がある。

これが「生きらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」(法然上人の教え)という。

「とてもかくてもあるべし」。死んでも生きても、どちらを向いてもありがたいことだといわれている。「死生ともにわずらいなし」。そのように法然上人は言われています。

親鸞聖人はね、そうなんだけど、「親しい人と別れるのは寂しいな」とおっしゃる。これがいいわーー(笑)

死ぬのが嫌だというんじゃなくてね、親しい人と別れていくのは寂しいことだよな。だから人生の名残りをしっかり惜しんで、一日一日を大事すごさせてもらいなさいや。

そういう言い方が御開山(親鸞聖人)でしょうね。その中でお念仏がどう私を育て、私を導き、目覚めさせるか。

浄土っていったいどこなんだというと、念仏が出てきたところ、念仏の郷だ。

仏様の悟りっていったいなんだというと、悟りが声となって聞こえておる。それが、念仏だ。

浄土とはそういう無碍の光がみなぎっている領域。そのなかでは捨てるものはひとつもない。すべては光り輝いている。と、仏様の目からご覧になったら、見えるんだろうな。

ああ、そのうちに見える。もうすぐや(笑  

わたしたちからみたら、あれはつまらん人や、つまらんことやとみえるけど、如来様の光が現れたら、どなたも光りかがやく。如来の子として輝いている。そういことなんでしょうね。ほんとにみなそうなんでしょうね。

それを自分勝手に利害損得で様々な姿を描き出して、自分の妄想に迷っているだけのことなんだ。

それがすきっとなったらどうなるか。天地輝く、すべてが光りかがやく。仏の世界として光りかがやく。そういう世界をほんまは生きている。

わたしたちは、別のものになるんじゃない。ほんらいの姿で光りかがやく。それが浄土の世界。

また、こんど光りかがやく世界で会わせてもらいましょう。きょうはこれでおわります。