過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

信じなくても、信じても救われるのか

阿弥陀信仰とキリスト教について、整理してみた。いつもながら、ざっくりと書いている。

阿弥陀浄土に往生することは、成仏とは違う。極楽浄土は、いわば成仏のための修行の場である。そこでは三悪道には堕ちない。誘惑する女もいない。空飛ぶ鳥までが、説法している。いわば、保険に入って修行することになる。

そして、浄土に往生するためには、至心信楽(ししんしんぎょう=心をこめて、ほんとうに熱心に)願うことが大切と説かれる。

しかし、もしも臨終の時、南無阿弥陀仏と称えられれば、下下品(いちばん下)の往生はとげらる。そうなると、蓮の中に閉じ込められて、ものすごい長遠な期間、説法を聞かされる。否応なく、修行が進む。

これは、浄土経典に説かれていることだ。煩瑣なので、詳しい説明ははぶく。

そして、法然は「南無阿弥陀仏と称えれば、往生できる」と説く。

しかし、これが親鸞になると、行として称える必要はない。発心すら必要ない。信じるという行為すらも、必要ないと説く。すなわち、阿弥陀の方から、信を起こしてくださるという。

「念仏もうさんと思いたつ心の起こるその瞬間、救われている」(歎異抄)と説く。死後の往生を待つことなく、現世において、その瞬間に救われるという。なので、念仏を称えるのは、修行のためではない。すでに救われているという報恩感謝のためである。

信じなくても、信じても、阿弥陀さんの方からすくいとってくれるという。

ちなみに「法華経」のような経典になると、信じないと地獄に堕ちると説く。信ずることによってのも、その知恵をいただき、成仏が可能だと説かれる。

信じなくても、信じても救われる。このあたり、じつはキリスト教プロテスタント)も似ているようにも思う。イエスを信じような信じまいが、神は救ってくださるのだという。

ま、どうしてそうなのか、理屈も含めて探求してみたい。

たとえていうと、お母さんにしてみたら、自分の産んだ子は、等しく可愛い。その子どもがお母さんを愛そうが憎んでいようが、とにかくわが子を愛して救いたい。それがお母さん。

というようなところと似ているのかも。まあ、その母性の擬人化が神であり阿弥陀さん、と。

キリスト教、とくにカトリックにおいては、マリア信仰というものが強い。マリアの母性に救われる思いがする人は多いのではなかろうか。