過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「歎異抄」を味わいつつ読みすすめている

「仏さまがいるから、大丈夫。なんとかなる」という人もいる。しかし、ほんとに大丈夫なんだろうか。安心していいのだろうか。
------------------
そもそも、仏さまっているのだろうか。
いたとしても、この自分を救ってくれるものなのだろうか。
救ってくれるとしたら、なにか条件があるのだろうか。
「三界不安猶如火宅」(三界は安からず猶火宅のごとし:『法華経』譬喩品)
この世界(欲界・色界・無色界=生命の世界、神々の世界、存在の世界)は、焼かれているようなものだ。そこに安心はない。そのままいたら、焼け死んでしまう。まずは、でなくちゃいけない、と。
火宅から出るための道を示すのが、仏教でもある(三車火宅の教え)。しかし、いまは火宅のあと始末が仏教の役目みたいになっている。
------------------
仏があるとしても、それは「いる」と信ずる人にしかいない、のだと思う。これは宗教全般がそういうことだ。
そして、仏教はややこしい。浄土ひとつをとっても、西方浄土、東方浄瑠璃世界、霊山浄土、密厳浄土とたくさんある。いろんな仏・菩薩がいてよくわからない。
そういった仏さまの加護を信じたとする。そして、死んだとき、ありゃりゃ、こんなはずでは……となるかもしれない。そうなると、まさに「空手形」。
------------------
そもそもブッダの教え=原始仏教は、人を救わない。ブッダは、自分が自分を救う道を示す。
それは、いまここの現実に直面するだけ。いまここに真摯に出会うだけ。いわばマインドフルネス。
そこに、「空手形」はない。
しかし、大乗と密教は、空手形を乱発する。とくに、浄土系は大盤振舞している。
------------------
そういう浄土の教えに生きた親鸞の言葉(歎異抄)である。
「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」。
───念仏を申して、浄土に往生できるのかどうか、あるいは地獄に堕ちることになるのか、それはわからない。そんなことは、知らない。
「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」。
───しかし、法然上人という師匠にだまされて、地獄に堕ちるようなことになっても、まったく後悔はしない。
なぜか。
「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
───そもそもどんな修行をしても、できっこない自分だ。自分にとっては、地獄こそが定まった住処なのだから。
------------------
さらに言う。
「 火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」。
まだよくわからない。しかし、「歎異抄」を味わいつつ読みすすめている。
親鸞がすごいのか、親鸞の言葉を書いて残した弟子の唯円がすごいのか。ともあれ、まことに深い書物。