過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「すらら」というアダプティブな対話式 ICT 教材を使いだした

学校には昨年の7月から行ってないあかり(7つ)だが、やはり、読み書き算盤はちゃんとさせたい。親が横についてみてあげればいいんだけれど、なかなかそうもいかない。
近ごろは「すらら」というアダプティブな対話式 ICT 教材を使いだした。月8千円。
国内では約2,171校の塾、学校等に提供している。熊本市教育委員会では、不登校支援事業(フレンドリーオンライン)で活用するICT教材として採用され、本格運用が始まったとか。
自分のペースで進められるのがいい。好きな時間にやれる。がんばってもいいし、がんばらなくてもいい。まあしかし、すすんでやるかというと、それも難しい。ので、おねえちゃんにZOOMでみてもらいながら、すすめている。

 

 

ちょっとこわいほうのストーリーを予測してみた。

ワクチン被害をマスコミが報道するようになった。
マスコミの真摯で真剣な対応なのか。マスコミにそうした気概、良心、ガッツがあるとは思われない。ある週刊誌がすこし飛び抜けているように見えても、大きな権力への忖度、あるいは背後の意思と指示で動かされる。そして、ほとんどの週刊誌が続いて「右に倣え」。こうして週刊誌で次々とワクチンの被害を報道。やがて新聞。そしてテレビで騒ぎ出す。
 ▽
しかし、もうほとんどの人が打ってしまっているから、いまさら騒いでも遅いんだけど。
今年の超過死亡は、ワクチン前の年と比べて20万を超えるだろう。いますでに15万人を超えている。厚労省の発表によると、コロナ死は5万人。その差、10万人はなにが原因か。

ワクチン被害訴訟が次々と起きるだろう。しかし、訴訟というものは、事実関係がはっきりしていても、最低でも一年や二年はかかる。
因果関係がはっきりせず、事実の争点がたくさんあると数年かかる。下級審から二審、三審となれば、まあ10年はかかる。弁護士はビジネスになるが、被害者の方は体力、集中力、資金が続かない。そうして、行政の責任は曖昧で、不法行為や罪に問うことはできない。
 ▽
ワクチン接種の人体実験、免疫抑制による効果測定がみえてきて、科学的な根拠をベースにせず同調性に従うという日本人のありようが観察された。
コロナも5類となり、マスクも解禁となる。そもそも、あんな布マスクに効果があったわけじゃない。エリザベスの葬儀、G7、G20を見よ。だれもマスクをしていなかった。相撲とりや行司、親方衆がマスクせず、観客がマスクをするという滑稽さ。
 ▽
ワクチンの次にくるこわいステージ。後遺症と突然死。
そうして、エネルギー危機、食糧危機、経済の大停滞。そして増税増税。国民が瀕死になる。
「これじゃあ、暮らしていけない。生活保護のほうがいい」
そういうレベルまで追い込まれる。

そこに、アメとムチ。
アメはベーシックインカム。ムチは個人の自由の管理と束縛。マイナカードにみられるような、個々人を管理する方向に向かう。緊急事態法案も通過していく。
そうして、戦争が起きる。自衛隊が出動する。言論の自由が奪われる。ふたたび戦前の時代がやってくる。

ちょっとこわいほうのストーリーを予測してみた。

子育てこそ先祖供養かも

「子育てこそ先祖供養かも」。
墓参りはほとんど行かない。そこに、先祖がいるとは思えない。
ただ、ときどきというか、日常的にお経とお題目や念仏、真言はよく唱える。
それは自分のエネルギーアップのためではある。心境を澄ますためである。けっして、先祖供養しているわけではない。また、唱えるのは宗派や宗教にこだわらない。
日本のお経、インドのお経、たまには近松門左衛門義太夫祝詞、いろいろだ。
 ▽
先祖はある。こうして生を受けるためには、無限の親、親、親が必要だ。
しかし、その先祖が、いまいるのかいないのかわからない。

いるとしたてら、どこにいるんだ。霊界? 浄土? 地獄?
もしもいたとしても、そもそもお経や念仏など、よろこぶとは思えない。

先祖が、どこかにいるとして、自分の思いが伝わるとしたら、
感謝の念、偲ぶ心だろう。
なによりわたしたちが幸せに暮らしている姿を喜ぶのだと思う。
 ▽
そして、死んだらおしまいか、というとこれが難しい。
まったくおしまい、かもしれない。
あるいは、また人間として生まれるのかもしれない。
あるいは、あの世とか霊界とか浄土にいつづけるのかもしれない。

そして、縁があるところにまた生まれてくる。
こないだの人生はこうだった、こんどはこういうことをしたい。
そのためには、こういう親で、こういう環境で育ちたい。
そう思って、自分で脚本を書いて願って生を受けるのかもしれない。
 ▽
わたしなどは、自分の母親は、娘のあかり(7つ)となって生まれてきたと思うところがある。
疲れて不自由な肉体を脱ぎ去って、新生の魂としてこの生まれてきた。いろいろと段取りまでして。それがあかりと思っている。

そしてまた、近しい人たちは、なんらかの自分の先祖ではないかと。
この人生は、生まれては死に生まれては死にを繰り返し、縁のある人と出会う。

なので、日々出会う家族、仲間、自分の子、それが先祖の転生した姿なのかもしれない。だから、死んでしまった人にお経を上げたり、墓参りもよいが、なにより日々出会う人と仲良く、大切に暮らしていくことこそが、先祖供養になるのかもしれない。
 ▽
親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。(歎異抄

ひょうたんランプとアトリエ・いもほり

ひょうたんランプ。作者の池田さんと久しぶりにおしゃべり。百古里十八番市(すがりおはこいち)での出会い。
ロケットストーブによる室内暖房、バイオトイレ工事のことなど、教えてもらった。
池田さんは、ひょうたんランプのような繊細で精緻なワザと土木工事、製茶などなんでもこなされる。山里には、こうした匠、アーティストがいる。そういた方との出会いは、たのしいことだ。こんど、工房をお訪ねして見せてもらおう。
その後、二俣の「アトリエいもほり」を訪ねる。オープンしたばかりの、子育て空間。明るくてやわらくて、居心地のいいところだ。あかりは、しばしあそばせてもらう。紙コップを積み上げたところ、最後のところで全て崩れてしまった。その崩れゆくさまが、なかなか見事であった。
近くのマルカワの蔵で、「己書」(おのれしょ)の講座の見学と蔵の中でお弁当をいただく。酒蔵をいかしたギャラリーで、オープンしてもう10年近くになる。二俣に行くたびに、ちょいと寄らせてもらう。





はるの冒険あそび場 ニワトリをいただく

ニワトリをしめて捌いて調理。西田さん主催の「はるの冒険遊び場」。
ここにきたら、友だちができる。お母さんたちはおしゃべりできる。山里体験ができる。
ありがたいことに、うちからクルマで10分と近い。あかりをあそばせてもらっている。なんとありがたいことよ。
こあして山里のあちこちで、「子どもの冒険遊び場」ができるといい。いろいろな人たちが交流できるようになるといい。

 

 

ダッチオーブンで、ご飯を炊く

ダッチオーブンで、ご飯を炊く。レンガで作ったロケットストーブが威力を発揮。とってもおいしくできた。

毎日、やっているので、アタリマエのことがよく分かってくる。

①火は空気(酸素)がないと燃えない。紙や木など燃えるものがないと燃えない。点火しないと燃えない。

②燃やす時、下から空気が入るのがいい。だから、下に空気の入口を作っておく。下から団扇か火吹竹などを使うといい。

③火は温度の熱いほうに燃えていく。煙突なる部分が温まると、勢いよく燃えだす。上が冷えていると、燃えにくい。不完全燃焼して煙が下から出てくる。

③別に煙突があると、熱が煙突から逃げる。ので、煙突の上で燃やすのが一番効率がいい。それがロケットストーブの基本。

④二次燃焼といって、高温の二次空気を送りこまれるとよく燃えて、煙がでない。

 

 

すぐそばに「はるの冒険遊び場」ができた

西田夫妻の家のすぐそばに「はるの冒険遊び場」ができた。広葉樹の森があって、川も近い。理想的なフィールド。西田さんたちの二年がかりの思いが実現したような。あかりは、毎日、通わせてもらうかな。


 

ついにはあかりは、ケツを出しておどりだして、手がつけられず

──さあ、めしの時間だよ。はやくおいで。

あかりが不満そうな顔でやってきた。
「おとうちゃん、“めし”って言わないで」
─どうして?
「だって、下品な感じがするんだもの。言うなら“ごはん”」
─そうか。“めし”って、ザツなものの言い方に感じるんだね。
 ▽
「“おやつ”って、“やつ”のていねい語なんでしょう?」
─うん、きっとそうだ。“お”がつくとていねいになるからね。ちょっと辞書を引いてみよう。(なにかことばを聞かれると、辞書で調べるという習慣になりつつある)
あ、そうだね。「やつどき」がいまの3時ころ。それにていねいな“お”がついて、おやつ。
 ▽
「おとうちゃん、“ケツ”って言うよね。“おしり”よりおもしろいよね」
─“ケツ”のほうが、下品で楽しいね。あかりは、いつも“ケツ”をだしているよね。

「おとうちゃん。くらやみに浮かぶ“しろいケツ”と“しろいおちんちん”と、どっちがすき?」
─おとうちゃんは、“しろいケツ”のほうがいいな。“しろいおちんちん”はみたくない。
 ▽
という会話に進み、ついにはあかりは、ケツを出しておどりだして、手がつけられなくなった。「クレヨンしんちゃん」は、まだ見せたことないが、さらにエスカレートしそうなので、見せないことにする。

毎朝、娘と太鼓叩いて叫んで跳ねて踊っている。

「ええじゃないか、ええじゃないか」やらないの。
──うん、いまいそがしいからね。仕事、仕事だよ。
「つまんないの。ええじゃないかやろうよ」
──じゃあ、やるかぁ。それ。

毎朝、娘と太鼓叩いて叫んで跳ねて踊っている。
タンバリンと法華太鼓、さらにはジャンベを叩く。
 ▽
なむあみだー
なんみょう ほうれんげーきょー
オーン・ナマ・シヴァーヤ(パンク歌手、ドイツのニーナ・ハーゲンのド迫力の声の出し方でいく)
舞が入る
えらいやっちゃ えーらいやっちゃ
ええじゃないか ええじゃないか ええじゃないか

思いきり声出して発散するのは、エネルギーワーク。
 ▽
なむあみだー
かつての高声(こうしょう)念仏という行の一つからヒントを得た。
この行法はかつて、浜松市の成子の法林寺で行われていた。
巨大な60センチ四方もある木魚をすりこぎの倍以上の棒で思いきり叩く。なむあみだーと叫んで打つ。木魚はぼろぼろだ。もう、やっているお寺はない。

「なーむ」で思いきり打つ(頭打ち)
「あーみ」で思いきり打つ(頭打ち)
「だー」(頭打ち)で、どうだ!というくらい思いきり打つ
daじゃなくて、dhaだ。イノキの、一、二、三 ダー!とおんなじ。

ちなみに、普通の浄土宗の念仏の称え方は、
なーで打つ(裏打ち)あーで打つ(裏打ち)ぶーで打つ(裏打ち)
こちらは、ゆったり系の延々と称えるやりかた。これはこれでいいものだ。
初学の坊さんだと、この裏打ちで木魚を叩くのができない人がかなりいると聞いた。
 ▽
ともあれ、いろいろな行法があるけれど、声出しは大切。
それも、肚から思いきりだす。
出し尽くす。そして、舞う、跳ねる、踊る。
へとへとになるまでやる。出し切る。
そして、自然と静寂になる。からっぽになる。
そのうち、春野文化センターの体育館で、そういうワークをやってみたい。

仏教は「加上」で説明できるのかもしれない。

仏教は「加上」で説明できるのかもしれない。
 ▽
一つの思想や学説が立つと、さらにそれを超克するために異なった思想や学説がおこってその上に付加され、こうして思想・学說は歴史的に発展していく。歴史的にたえず新しい説が現われ、上へ上へと積み重ねられていく。
これを仏教の経典にあてはめれば、数多くの経典こそまさに「異部加上」の産物である。それらすべてが釈迦一代において説かれたものではなく、歴史的進展にともなって作成され、順次に加上されていった。
 ▽
シャカ以前に外道あり、シャカは外道の教えに付加・補整をほどこし(加上)、その結果、仏教が成立した。さらにシャカ滅後、経・律・論の三蔵の編集(結集)が行なわれ、かくして現われたものが小乗仏教である。
その後、文殊の徒があって、小乗に加上をなして般若の教えを作り、ついで法華氏・華厳氏・涅槃氏・嶼部氏(楞伽経)・秘密氏(密教経典)が出て、前説に加上していったので、これがすなわち大乗仏教といわれるものである。
 ▽
したがって仏教学者が諸教はみなシャカの金口・直説であると考えたことは愚かなことである。教相判釈なるものは、すべてをシャカの直說と考えた結果、異説・矛盾にたいし、なんとかつじつまを合わせようと、こじつけの解釈をしたものである。
田村芳朗による富永仲基『出定後語』の要約:中公新書法華経」より

1年前の投稿

2022年1月15日  · 
あかりのブロック遊びをみていると、次から次へと上に加えていく。 
それをまたおとうちゃんは、さらに複雑に積み重ねていく。「どうだー!」という異体かつ不可思議がものがつくられていく。
それはやがて壊されて、また新しいものが作られ、また、上へ上へとと積み重ねられて複雑になっていく。
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これは、仏教思想の発展形式も似ていると思う。
とくに仏教において、原始仏教から精緻・複雑な阿毘達磨(アビダルマ)があらわれて小乗となり、戒律も250〜500と数が増えていく。
やがて、商人たちによって大乗仏教が信奉され、あらたな般若(智慧)による仏典が形成されていく。般若経、楞伽経、維摩経華厳経、そして法華経や涅槃経。そうしてまた更に、密教が現れて大日如来による説が説かれていく。
かくして、「先のものよりもこちらがすごいのだ」と主張したいがために、より複雑で難解なものとなっていく。そうして仏教というと、くらくらするような難渋、複雑、重厚、膨大なものとなっていく。
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しかしじつのところ、ブッダのいいたいことはシンプルなものであったろう。深いものは本質的なものはシンプル。
一言でいうと「いまここの自分に気がつくのみ」「人生はいまここの瞬間瞬間にある」。
「わたしが、という心があるために複雑になる」。その「わたしというありようこそが、すべての問題である」と。
そんなことを説いていたのではないか。そのあたりを探求していきたい。

7時になると「スミレの花の咲く頃〜」というオルゴールが鳴る

朝、7時の窓の外。
モヤというか霧がかかっているけれど、なんというありがたい環境かな。部屋のなかでは薪ストーブ(総費用4千円だよ)で、杉の木が、ぱちぱちと音を立てて燃えている。あったかい。
7時になると「スミレの花の咲く頃〜」というオルゴールが鳴る。春野町は、白井鐵造という宝塚歌劇団を作った人の故郷だからね。
その音にあわせてうちのラン(甲斐犬)が、かならずワオーーーンと吠える。

 

「即」ということばが、よく仏教(大乗仏教)に出てくる

「即」ということばが、よく仏教(大乗仏教)に出てくる。
即とは、「すなわち」という意味合いで使われる。即席ラーメンのように、「ただちに・時を移さず」という意味もあるが。

本来、異なった概念・ありようを「即」で結びつけてしまうのが、大乗仏教であり、とくに中国で漢訳化されるときに使われた。

日本的な漢音だと、すらっと発音できて、わからないのにあたかもわかったような気になってしまう。そこがとてもクセモノなんだけど。
 ▽
「煩悩即菩提」……「煩悩こそが悟り」「煩悩が薪となってこそ悟りの炎が燃える」のように使われる。本来のブッダの教えでは、煩悩を断って(消滅して)こそ悟り(涅槃)に至る。そのための戒律であり、実修が仏教である。
 ▽
「生死即涅槃」……生死(現実生活の迷い、悩み、苦しみ)こそが涅槃である。悟りである。永遠の安らぎであるとする
ブッダの教えでは、生と死を繰り返してゆく輪廻を超えようとする、輪廻を断つのが、涅槃であり解脱である。
 ▽
「色即是空・空即是色」……「般若心経」の有名な言葉である。「色」とは現象世界を意味する。現象世界は、実のところ実体がない、瞬間瞬間、変化してやまないものだから「空」である。

「空」とはNothingness、空っぽ、実体がない、永遠なるものが実在しないということになる。量子力学を持ち出すこともなく、すべての現象は、宇宙も一微塵(素粒子)も、たえず運動、変化し続けているということができる。諸行は無常ということだ。

しかし、大乗仏教に至ると、「空即是色」となる。Nothingnessがじつのところ、Everythingとなる。このあたりは、ちょっと論じるのに手間取るので、今回は離れる。
 ▽
「即身成仏」……直ちに成仏してしまう。現世で悟りを得る。この身体を離れずして悟りを得る。「即身」は、この肉体を離れないということ。

本来のブッダの教えでは、生死を流転し修行し続けて、ついに悟りを得るというような意味合いが強いのだが、密教においては、即身成仏と説かれる。
 ▽
仏法即生活……仏法とはこの生きている現実、生活そのものである。生活を離れて仏法はない。これは、創価学会などがよく述べている教えだ。この逆境を乗り越えるところにこそ、幸福があるということだろう。
ちなみに、「方便究竟」(大日経)「化城即宝処」(日蓮:御義口伝)などと、現実生活こそが真理であり、究極であると説かれる。

ブッダの教えでは、世間を離れる。「出世間」の教えである。出家者、あるいはサンガ(集団)のなかにも生活はあるのだが、仏法とはそもそも、生活を離れるところにある。「ひとり歩め」と説かれる。
 ▽
似たような言葉の使い方としては、「不二」「一如」がある。「冥合」もある。「生死不二」「而二不二」「王仏冥合」、また仏教以外でも「身土不二」「心身一如」「物心一如」など、使われる。これについては、また別の機会に述べたい。

助成金千本ノック

助成金千本ノック」
この10年で100本くらいは申請したかもしれない。打率は30%くらい。ほとんど民間の起業や財団の助成金
今年の1月は、大小も含めて5本申請した。それと、しっかり書いていたのに締切日を間違えての悔しいアウトが1本。
今月末に申請する書類があと5本。もうだいたい骨子はできている。いまの企画提言の方向性は、こんなところ。
 ▽
「子どもをドまん中に据えた多世代交流広場」
①子どもの冒険遊び場作り。“まちなか”の親子もやってくる。子どものいない山里。。近くの小学校の一年生の生徒は7名:あかりはやめたので6名。
②こんな過疎地なのに。いや、過疎地ゆえに。これまで数度、うちの施設でやってみたけど、40〜50名くらいの親子が“まちなか”から集まるんだよね。焚き火ができる、星空がきれい、水遊びができる、田んぼもできる。ホタルもでる。
③木造の廃校とか、つかえないかな。つかわなくなったインフラ(山村交流センターの類)もたくさんある。あるいは農家の敷地を借りる。そういう場所に、子ども広場ができたらおもしろい。
 ▽
「山里の空き地・空き家の有効活用」
①なにしろ自分の所有地だけでも2,000坪以上もあるよ。8部屋の空き家もある。使っていない空き地(宅地、農地、山林)。その他、過疎地は空き家だらけ。
その有効活用ってところ。所有者が他人だと色々ややこしい。ので、自分のところだけの土地と建物の有効利用。
②コロナ禍で家を失う、仕事を失う、あるいはひきこもりの人を対象にして、山村体験、貸し出す、シェアハウス。とにかく使ってもらう。暮らしていくとなると、山里で仕事みつけるのは難しい。現金収入の道、どうするか。でも、自給自足の道はがんばれば可能だしね。
③いろいろ活用してもらった。去年は、飼い犬が通行人に飛びかかって重症を負わせ、その損害賠償がのため土地と家を売却して、山里に犬とともに移住するという夫婦に貸し出したことがある。それから、インド帰りの夫婦に3ヶ月くらい暮らしてもらった。おかげで、ずいぶんと家は整然となってきた。先は長いけど。
 ▽
介護施設の有効活用」
昨年末に廃業した。けれども、介護施設がもったいない。敷地400坪、ホールだけでも50畳もある。トイレも3つ。大きな風呂場も。個室も3つ。事務所も、保育所もある。でも、いまから再び介護の仕事に戻る気力と人員体制なし。客もなし。
①私設図書館とこども広場として、使ってもらう。地域のカルチャーセンターとしてもしばらくトライしてみようか。
②シェアハウス、民泊の方向。
③喫茶と軽食。レストランにする。バイクのツーリング客向けというのもあり。
 ▽
「浜松の過疎の山里めぐり」
天竜区全域と引佐町の山間部をエリアに、まちなかの人に訪ねてもらう。山里ならではのおもしろい人ばかり200件リストアップしてみた。
②あとは、わーっと人がやって来るイベントか、個別イベント(各家を訪ねる、もてなす)でいくか。あるいは、広報に徹するか。普通の暮らしをZOOMや冊子で紹介していく。トークイベントを開いていく。
③企画が採択されたら動いていく。採択されなければ、動かず。時間とエネルギーのお金がかかるから。なにしろ広大。おそらく東京23区エリアよりも広い。伊豆半島くらいはある。
10年前には「北遠山里めぐり」というのを企画して、延べ3,000人くらいの人が山里を訪れてくれた。そのときの企画で作られたネットワークがその後、いろいろなところで活きていくことになった。無形財産となった。
 ▽
まあ、そんなことしているよりも、しっかり自分の仕事をして稼ぐ。これに如(し)くはなし。助成金というのは、自分働く経費は出ないのだ。社員の分も。
ということで、春から編集と執筆の仕事に集中せねば。そして、なんといっても自給自足の体制づくりだ。時代は大きく変わる、変わる。

U字溝と耐火レンガのロケットストーブ

U字溝と耐火レンガのロケットストーブ。試行錯誤中だが、勢いよく燃える。
最初の燃料投下は、煙突の上から。新聞紙を燃やして木の切れ端を入れる。ぼうっと火が点いたら太い薪を入れる。やかんなどをかけて沸かすときは、下の方から木を入れる。とても効率よく煮炊きができる。

「助成金千本ノック」

助成金千本ノック」
この10年で100本くらいは申請したかもしれない。打率は30%くらい。ほとんど民間の起業や財団の助成金
今年の1月は、大小も含めて5本申請した。それと、しっかり書いていたのに締切日を間違えての悔しいアウトが1本。
今月末に申請する書類があと5本。もうだいたい骨子はできている。いまの企画提言の方向性は、こんなところ。
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「子どもをドまん中に据えた多世代交流広場」

①子どもの冒険遊び場作り。“まちなか”の親子もやってくる。子どものいない山里。。近くの小学校の一年生の生徒は7名:あかりはやめたので6名。

②こんな過疎地なのに。いや、過疎地ゆえに。これまで数度、うちの施設でやってみたけど、40〜50名くらいの親子が“まちなか”から集まるんだよね。焚き火ができる、星空がきれい、水遊びができる、田んぼもできる。ホタルもでる。

③木造の廃校とか、つかえないかな。つかわなくなったインフラ(山村交流センターの類)もたくさんある。あるいは農家の敷地を借りる。そういう場所に、子ども広場ができたらおもしろい。
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「山里の空き地・空き家の有効活用」

①なにしろ自分の所有地だけでも2,000坪以上もあるよ。8部屋の空き家もある。使っていない空き地(宅地、農地、山林)。その他、過疎地は空き家だらけ。
その有効活用ってところ。所有者が他人だと色々ややこしい。ので、自分のところだけの土地と建物の有効利用。

②コロナ禍で家を失う、仕事を失う、あるいはひきこもりの人を対象にして、山村体験、貸し出す、シェアハウス。とにかく使ってもらう。暮らしていくとなると、山里で仕事みつけるのは難しい。現金収入の道、どうするか。でも、自給自足の道はがんばれば可能だしね。

③いろいろ活用してもらった。去年は、飼い犬が通行人に飛びかかって重症を負わせ、その損害賠償がのため土地と家を売却して、山里に犬とともに移住するという夫婦に貸し出したことがある。それから、インド帰りの夫婦に3ヶ月くらい暮らしてもらった。おかげで、ずいぶんと家は整然となってきた。先は長いけど。

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介護施設の有効活用」

昨年末に廃業した。けれども、介護施設がもったいない。敷地400坪、ホールだけでも50畳もある。トイレも3つ。大きな風呂場も。個室も3つ。事務所も、保育所もある。でも、いまから再び介護の仕事に戻る気力と人員体制なし。客もなし。

①私設図書館とこども広場として、使ってもらう。地域のカルチャーセンターとしてもしばらくトライしてみようか。

②シェアハウス、民泊の方向。

③喫茶と軽食。レストランにする。バイクのツーリング客向けというのもあり。

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「浜松の過疎の山里めぐり」

天竜区全域と引佐町の山間部をエリアに、まちなかの人に訪ねてもらう。山里ならではのおもしろい人ばかり200件リストアップしてみた。

②あとは、わーっと人がやって来るイベントか、個別イベント(各家を訪ねる、もてなす)でいくか。あるいは、広報に徹するか。普通の暮らしをZOOMや冊子で紹介していく。トークイベントを開いていく。

③企画が採択されたら動いていく。採択されなければ、動かず。時間とエネルギーのお金がかかるから。なにしろ広大。おそらく東京23区エリアよりも広い。伊豆半島くらいはある。

10年前には「北遠山里めぐり」というのを企画して、延べ3,000人くらいの人が山里を訪れてくれた。そのときの企画で作られたネットワークがその後、いろいろなところで活きていくことになった。無形財産となった。

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まあ、そんなことしているよりも、しっかり自分の仕事をして稼ぐ。これに如(し)くはなし。助成金というのは、自分働く経費は出ないのだ。社員の分も。
ということで、春から編集と執筆の仕事に集中せねば。そして、なんといっても自給自足の体制づくりだ。時代は大きく変わる、変わる。