過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

墓じまい②遺骨にたましいが宿るものなのか

カタリバ「看とりとおくり」を主催しているので(8月は4回の開催であった)、いろいろな事例を聞く。相談も受ける。そこで、論議されていた内容をすこしずつ紹介していく。

「墓じまい」については、なかなか厄介。いまの墓所から別のところに遺骨を埋葬するときには、菩提寺の住職の証明書が必要になる。ここでなにがしかのお礼もしなくちゃいけなくなる。(いわばハンコ代みたいなものかも)

そもそもお墓というのは、土地を買っているわけではない。永代に渡って使用する権利を得ていのだ。そこで、永代使用料を払い、墓地管理料も払っていれば、墓じまいに際しては、とくにお寺にお礼など必要ないように思う。お墓から魂を抜く閉眼供養などの「お布施」は必要になるのかもしれない。

ここで問題なのは、檀家を離れるということになると、なにがしかのお礼が必要になってくるということ。離壇料を数百万円も要求されたという話も聞く。

離檀して、先祖の墓を放棄した友人がいる。その際、寺から「霊抜き料」がいると言われたが、私には関係ないと言い切って断わった。そういう墓じまいの仕方もある。しかしまあ、穏やかにはいきたいところ。

ところで、お墓から魂を抜くというのも不思議な話。そもそもお墓に魂があるのか。魂がお墓にあるとして、お坊さんの読経によって「魂を抜く」効果があるのかないのか。だれもわからない。

遺族は、お坊さんさんが「魂を抜く」という特別な力があると信じているのか。そして当のお坊さんが、自らそう信じているのかどうか。だれもわからない。

よくわからないけど、そういうものだから、やっておいてほうがいい。という程度のありようじゃないだろうか。なにもしないと、なにか祟りがありそう、気持ちが落ち着かないというところだろうか。

もしも、そういう供養や儀式か必要ということであれば、自分が心をこめてそれを行えばいいことだと思う。では、どういうふうにそれをおこなったらいいのか、また別の機会に。