過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

本当は日本人ってすごいのよ‥‥。そのすごい日本人を骨抜きにしようとしたアメリカの戦略が成功したってことよね

「本当は日本人ってすごいのよ‥‥。そのすごい日本人を骨抜きにしようとしたアメリカの戦略が成功したってことよね」
───そうかも。それにしても、気概がない。希望がない。
「これからの日本をよみがえらせるには、教育しかないわよ」
───いまの教育は、従順で体制に逆らわない、辛抱する人間を育てるためにあるみたいなものですからね。
  ▽
A用品店の店主との会話。83歳になる。
いつも二俣の町にでるとき、ふらっと寄る。
夫は元日大の相撲部にいたという強者だが、もう亡くなっている。
店の裏には伊豆石で作った蔵があった。そこには、有吉佐和子疎開していたという。惜しいかな、もう解体されてしまったのだが。ああ、もったいなや。
 ▽ 
あかりは、ここで雑談している間、となりの書店(谷島屋)に立ち読みに行く。疲れては帰ってきて、そしてまた立ち読みに行く。
「昔は、立ち読みする生徒がたくさんいたけれど、いまじゃ一人もいないよ。日本人ってバカになっちゃったみたい」
───そもそも本を読まない。みんなテレビ見て、「テレビが言ってたもん」と。信用して大騒ぎしてしばらくしてもう忘れている。ますますバカに。
「これから教育をつくりなおして、ほんとうの日本人を作るには、あと100年はかかるわね」
───おちるところまで、おちる。それしか復活はないかもしれませんね。
  ▽
昨年、スリランカスマナサーラ長老と対話した。
以下は、そのときのやりとり。
───いまの日本は先行き不安ばかりです。自信を失い、ものすごく閉塞的になっています。暗い人がどんどん増えていきます。ダメになっていく感じをみんな持っているんですね。どうしたらいいのでしょうか? どんどん坂道を転がるような感じがあります。
「わたしは、小さいころ親たちからよく言われましたよ。〝お前たちは怠け者だ。日本人を見習いなさい。日本人というのはいつも働いているんだよ。手洗いにいっても編み物で何か縫っているほどだ。そうやって、アジアで第一の国になったんだ〟と。
その勤勉な日本人はどこで止まってしまったんですかね。いつから化石になってしまったんですかね」
───化石になってしまった‥‥。どうしたらいいものやら。
「しかし、これを解決することは、簡単なことなんです」
───簡単ですか。
「こう思うことです。
世界は毎日毎日変わる。変わる。世界は、毎日毎日違う。世界は、瞬間瞬間、変わる。
変わっていく現実に対して、わたしはどうすればいいかと悩んでも仕方がないんです。
変わっていることに気づけない人々は、死ぬしかないでしょうね。
大きな地震が起きて津波がくるとしたら、もう一目散に逃げるしかない。
津波が来るのに、何かも捨てて逃げなかったら、津波に巻き込まれてしまいます。
水に浮かんだボートは波が来れば揺れますね。それに乗っていれば、ボートに合わせて体も揺れるでしょう。揺れるのにまかせるしかないんです。一緒に揺れなかったら水の中に落ちるか、ボートが転覆するかでしょうね。
まあ、私のような年齢になってきたら、あんまり先がない。だから揺れなくてもいいともいえますが。それはそれで、どんどんフリーになっているので結構なことなんです」
とにかく瞬間瞬間、世界は変わる。状況は変わるんです。
そのことが本当にわかるかどうかです」
───なにしろみんな先行き不安でいっぱいです。昼も不安で夜も不安。いつも不安。
「不安なのは、そもそも安定を求めているからです。
安定はないと腹をきめることです。
安定した会社、安定した商売、安定した家族。そんなものはないんです。時計がいつもちゃんと動いていたとしても、ずっとそのまま安定して動くわけはないのです。いつか止まることもあります。すべては瞬間瞬間、変わるのです」

今日から週一のフリースクール

あかりは学校に行っていれば小学校三年生になる。だが、行かず。「一斉授業はつまらなので、絶対に行かない」と宣言している。まあ、それはそれで仕方がない。

今日から週一のフリースクール掛川市だからここから一時間余。すでに親しい友だちが数名いるので、楽しみにしていた。
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通うのは、週一のキックボクシング(休まず行ってる)とフリースクールとなった。月2の太極拳はおとうちゃんに着いてくるだけ。阿波おどりもはじめた。

家では読書とお絵かき、ストーリー性のある漫画も描き出した。そして、AI相手に将棋。将棋は1日最低3局は対戦しているが、みるみる強くなってきている。

読書の楽しみを覚えてくれたのは嬉しい。読書が好きなら自分でどんどん進めるからね。まちなかにいくと「かならずサイゼリヤと書店によってほしい」と言われる。

食事した後は、立ち読みをじっくり1〜2時間。いや立ち読みじゃないなぁ。椅子を持ってきて集中して読んでいるんだ。
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あとは、社会勉強。おとうちゃんの秘書みたいな感じでついてくる。助成金の申請に行く時、「役所だよ。ここはこういう仕事していて、こんな感じなんだよ」と案内。部課長以下20人くらいにかこまれてのプロポーザルにも一緒に参加させる。

市会議員の事務所に一緒に立ち寄って雑談。ベトナム人僧侶のビザ取得のために入管にも同行した。ベトナム寺院が宗教法人を取得するために県庁に行くのだが、それにもついてくる。

本作りの打ち合わせにも同行。昨年は、スマナサーラさんの本作りにも参加した。伊藤忠財団のレセプション、国会議事堂前の議員会館石破茂事務所での打ち合わせにも同行させた。
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あかりは、まちがいなく激動の時代を生きることになる。サバイバルの無常の世界。偏差値教育の罠にハマって学ぶのはもったいないと思っている。

「自分で選択して、自分の責任で学ぶ」という道を歩ませたい。義務で仕方がないから学ぶということじゃなくて。

人間、楽しいこと、躍動することに集中すればすごい勢いで力がつく。とくにいまの時代は貴重だ。

 

「鉄腕アトム」手塚治虫と遠藤周作

GoogleKeepに入れて「画像のテキストを抽出」を選択すると、1秒でテキストにしてくれる。この機能は、とても便利。

なお、たくさんのページの本などのテキスト化は、GoogleDocumentをつかうと、かなりの精度でテキストに変換してくれる。ネットからいただいた画像。
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火の鳥」生と死

ぼくは医学生時代、何度も人の死に立ち会った。
映画「赤ひげ」ではないが、死とのたたかいはなんと壮厳で神秘的なものだろう。
死を迎えたとき、その肉体のどこで、どのような機序がなされ、息たえたときに浮かぶ一種の法悦感は、なにを物語っているのだろうか?
死とはいったいなんだろう?
そして生命とは?
この単純でしかも重大な問題は、人類が有史以来とっくんで、いまだに解決されていないのだ。
ある人は宗教的にそれを解釈し、あるいは唯物論的に割り切ろうとする。

ある説によれば、霊魂は物質として存在し、肉体をはなれるときにはその重さだけ体重が減るという。
ふくざつな蛋白質――コロイドとよばれる状態には、疑似生命現象がみられ、ぎゃくにビールスの中には、生命があるのかどうかも疑わしいものがある。

生命が物質なら、それらにも霊魂があるのだろうか?
人間は何万年も、あした生きるためにきょうを生きてきた。あしたへの不安は死への不安であり、夜の恐怖は死後の常闇の世界の恐怖とつながっていた。人間の歴史のあらゆるときに、生きるためのたたかいがなされ、宗教や思想や文明のあらゆるものが、生きるためのエネルギーにむすびついて進歩した。

火の鳥」は、生と死の問題をテーマにしたドラマだ。古代から未来へ、えんえんとつづく「火の鳥」永遠の生命とのたたかいは、人類にとって宿命のようなものなのだ。
  ▽
アトムと私
遠藤周作

どこの家庭でも同じだろうが、私の家でも夕食どき、幼稚舎に行っている坊主と私とのにテレビの争奪戦がある。彼が見たいものは私にはあほらしいし、私の見たいものは彼が首をふるのだ。

息子は子どもだし、私は大人だから、けっきょく我慢させられるのはこっちで、そのためずいぶん、子どもの番組につき合わされた。「三馬鹿大将」や「チビッ子ギャング」に「名ラッシー」など、いやでもほとんど見ている。そのうち、いやいやでなく、こっちもたのしみながら見ている番組があるのに気がついた。

それは『鉄腕アトム』である。テレビで『鉄腕アトム』を見てから、ときどき、ひまなとき、息子の部屋にしのび入って、彼の本箱から、この本をさがすようになった。私はだいたい、息子にはどんな漫画本でも文句なく与える主義である。

よく漫画本を子どもがよんで困るという母親があり、そのご心配もわからぬではないか、つまらぬ、かびのはえたような偉人伝ばかりを与えることによって、子どもに本とはおもしろくないものだという考えをうえつけるのは、角をため牛を殺すことになる。

本とはおもしろいもの、本とは自分の生活に結びついたもの、という気持ちを知らず知らずのうちに与えるほうが、将来への感情教育に有益だと私は思うから、わが家では漫画本もどんどんかうことにしている次第だ。

だから、息子の本箱は、ほとんど漫画である。その漫画本の中でも、いちばん私がひきずりだすのは「鉄腕アトム」である。
理由は単純だ。おもしろいからである。そして、画のなかの空想性がいちばん、のびのびしているからでもある。

息子のベッドにひっくりかえって、『鉄腕アトム』をよんでいる自分の格好はあまり、ほめたものでもないと思うが、ときどき、ひょっとすると、も私と同じように、ひそかに子どもの部屋からこの本をかりだして熱読しているパパやママが意外に多いのではないかと考えては、自己弁解の代わりにしているわけだ。




 

判決を通して創価学会の歴史を見ていく

「判決を通して創価学会の歴史を見ていく」という探求の方法があります。

創価学会日蓮正宗、さらには日蓮正宗と正信会との間に、数々の裁判が行わました。その判決を読んでいくと、いろいろみえてきます。

1つは「板まんだら事件」(本門の本尊である日蓮の図顕した曼荼羅=板まんだら)がニセモノである。そして、正本堂は「本門の戒壇」ではないから、御供養した金銭を返せという裁判。これは最高裁まで争われました。

2つは、阿部師の管長の地位不存在と、正信会員住職の代表役員地位不存在の訴訟。日蓮正宗内部でも、争いが起きて、裁判闘争が繰り広げられました。

3つは、破門された創価学会日蓮正宗の間での裁判です。これは、たくさんありすぎるのですが、ひとつ一つみていくといろいろわかってきます。

まあ、相当なヒマ人か、相当の熱意がないとできない作業ですけど。池谷はわりとこういうのが好きなので、ひとつ踏み込んでいこうかと思っているところ。ま、きょうはそれよりも、たけのこ掘りに行かなくちゃ。

あかりの口グセ

あかりの口グセ。

客観的な証拠は?
過去のことじゃなくて、「いま」の話でしょう。「いま」!

おとうちゃんのロジックを、そのまま返してくる。

あるいは、「おとうちゃんはそう言うけど、おとうちゃんはやってない」と言われる。

子どもは、親の言うことは聞かない(本気度を出すと聞くけれど、あんまり使いたくない)。
つね日頃の親の姿をみているわけで。それは当たり前なんだけど。

というわけで、ともに成長していくのが子育てということに。

常日頃の親の姿をみているわけで。それは当たり前なんだけど。

あかりの口グセ。
客観的な証拠は?
過去のことじゃなくて、「いま」の話でしょう。
おとうちゃんのロジックを、そのまま返してくる。
「お父ちゃんはそう言うけど、おとうちゃんはやってない」と言われる。
子どもは、親の言うことは聞かない(本気度を出すと聞くけれど、あんまり使いたくない)。
常日頃の親の姿をみているわけで。それは当たり前なんだけど。

やらなくちゃいけないことは、やる。 あとまわしにすると、取り返しがつかない。

やらなくちゃいけないことは、やる。
あとまわしにすると、取り返しがつかない。
なので、時をはずさないで、やりきる。しかない。

と思うんだけけど、これがなかなかできない。
ついつい後回し。
そして、あとですごく苦労する。倍以上、苦労する。

きょうもある件で、取り返しのつかない事態に(;´д`)トホホ…

とにかく始めてみたら、手を付けてみたら。
あれれ、すんなりいける‥‥。そういうものだ。

やらないで放置している間のストレス、もやもや感がエネルギーの消耗になっている。
  ▽
いまやらなくちゃいけないこと最優先、プロジェクトづくり。

①GoogleKeepに「なすべし」リストを細かく分けて書き込む。EvernoteからGoogleKeepに乗り換えたところ、使いやすい。

②仕事を人固まりゃなくて、細かく分けていく。すると、「ああ、これならできる」とやれそうになってくる。そして、できる。ストレスが少し減る。

③ひとつやると、バッと二重線が着いて消えるようにしている。

④もうひとつは、Macのなかで、タグで管理することにしている。ディレクトリー管理はつかれるのでしない。「なすべし」のタグでぱっと呼び出せるようにする。

⑤ちょっと時間のある時、暇な時に、ちょいちょいとこなせるようにしておく。

あっ、いつの間にか、できている。
そういうふうにしたい。

戒壇の本尊(板曼荼羅)の真偽についてMさんに聞いた

「おれも長くないから、色々聞いておいてくれ。あなたなら、それらを整理して文章にして残してくれると思うから」
───Mさんが、当時の日蓮正宗創価学会の究極の本尊、板曼荼羅に疑いを抱いたのは、なにが〝きっかけ〟だったんですか?
「それはね。矢島周平に出会ってからなんだ」
───矢島周平というと、元創価学会の理事長ですよね。牧口常三郎戸田城聖の頃の創価学会の最高幹部。
昭和18年に初代会長牧口常三郎が逮捕された際、矢島氏も逮捕・勾留。出獄してから、昭和24年に『大百蓮華』の初代編集長。戸田城聖が理事長を辞任した際、後任の理事長に就任している。
その矢島氏に、どのような経緯で出会ったわけですか?
「矢島周平は、創価をやめてから日蓮正宗の僧侶になったんだよ。埼玉の大宮の本因寺の住職になったんだよ。たまたま、そのお寺の前の仏壇屋で雑談していたら、そのことを聞いた」
───ほうほう。ぼくも大宮に住んでいたので、そのお寺も仏壇屋も知っていますよ。
「で、いろいろ話をしているとき、板曼荼羅はじつは大石寺の御影堂(みえいどう)にかかっていた。それがある時、宝蔵におさめられた。戸田城聖がそれを見つけて、〝これは?〟と聞くと、〝曰く因縁のあるもので〟ということだった。
その時、戸田さんは「これをもって本尊としよう」と思ったようだ。大石寺としては、「まあ創価学会という講中の本尊としたなら、問題なかろう」という程度だったようだ。それが、折伏大行進時代で、あれあれという間に100万人規模に信徒が増えていった。いまや1200万人という。
───大石寺としてもびっくりですよね。地方の小さな寺が全国展開。そして、信徒とお金がどんとん入ってくる。いまさら、「板曼荼羅は後世の偽作」なんて言えない。
「そうだと思うよ。それで、矢島周平が言うには、〝じつは日蓮正宗には日蓮聖人のあらわした本尊はひとつしかない。それは、保田妙本寺にあるんだ〟という」
───はい。保田妙本寺には、「万年救護」の本尊がありますね。文永11年12月に身延の草庵であらわしたもの。もしも日蓮の出世の本懐というのなら、そちらのほうじゃないかというわけですね。
 ▽
ひさしぶりにMさんと話をした。もう80も後半になる。「そういえば元気かなあ」とひらめいたので電話したのだ。
彼は創価学会の本部職員であり、職員でいながら創価学会に反逆した。
かつて創価学会正本堂を建立するとき4日で355億(いまでいると5,000〜8,000億円くらいか)を集めた。
その正本堂に安置される戒壇の本尊(日蓮の図顕した曼荼羅を板に刻んだもの:通称「板曼荼羅」)が後世のニセモノと気づいたからである。歴史考証、書誌学などを学んでいくと、ニセモノというのは、容易にわかるのだが、当日の創価は熱烈な信仰集団。そんなことに疑いをもつ人はいない。
板曼荼羅こそが究極の真実であり、末法の人類を救うものであり、これを拝むことで自身の不幸の宿命を断つことができる。幸福になることができると強く信じられていた。いわば「幸福製造機」(二代会長の戸田城聖の言葉)として、信じられてきた。(創価日蓮正宗に破門されたから、拝めない。ゆえに、板曼荼羅については言及していない。むしろ偽作説に舵を切っている)
 ▽
その辺の経緯は複雑なので別稿にする。
私に関心があったのは、「Mさんが「なぜそのようなことに気づいたのかということであった。
───おたがいに年だから、いつ死ぬかわからない。生きているうちに色々聞いておこうと思ったんです。さきほど友人の日蓮宗のIさんに電話したら、「ちょうどいま葬式の準備している」と。そりゃ坊さんだから、葬式に忙しいだろうと思いきや「いや、おれの葬式だよ。いま女房と打ち合わせしているんだ。もうすぐ死にそうだからな。死ぬ前に還俗して、俗のまま死んでいくんだ」と言っていました。
「いかにも、Iさんらしいなぁ」
───大寺院に生まれて、お金も時間もある。それで、宗内で活躍したって意味がない。むしろ困っている海外の人を助けようとNGOをつくって活動してきた。なんとラオスに学校を123校も建てたと言いますよ。
そんな話をしていたら、「とみろでMさん、元気かねえ」というので、ひらめていて電話したんですよ。
「Iさんお父さんにはお世話になったなあ。もう100歳になるのかなあ。日蓮宗にこんな粋な人がいたのかと思ったよ。出会ったのは、創価学会板曼荼羅裁判していた時(最高裁まで争った)、全国の日蓮宗のお寺を行脚して、寄付を募ったときだったよ。ずいぶんと、いろいろなお寺を紹介してくれた」
 ▽
───Mさんは、かの巨大宗教団体と公然と裁判闘争して、批判する本を出し続けていったわけで、それはすごいことですよ。当時の創価学会はたいへんなものでしたからね。よくぞ、身の危険から逃れたものです。
「まあ、いろいろ妨害されたよ。盗聴されたり、床下にシロアリ撒かれたり、クルマは壊されるわ、猫の死体がぶら下がっていたとか、枚挙にいとまがない」
───それはそれは、ごくろうなことでした。まあ、そのおかげで、創価学会の洗脳枠から外れて、深く日蓮研究も進んだってわけで、よかったっていうことで。
「そうなんだよ。学ぶのは楽しいぞ。もっと若いときに「善知識」(真の仏道に導いてくれる人)に出会ったていたらなあ。まあ、こればかりは、過去世の縁もあるし、望んでも難しいこと。出会ったとしても、こちらの受け入れる素養がなくちゃ、通りすぎていくしね」
───まったくです。よき人との出会い、師匠との出会いは人生の最大のテーマです。
まあ、Mさんは、池田大作という人を師匠として本部職員になったので、そこが最大の失敗でしたが、それがまたあとから、日蓮創価学会という教団の探求になっていく。なにが幸いするかわかりませんね。
「そうなんだ。まったく」
───ぼくは、創価日蓮の法門の教義よりも、その人間のありよう、教団のありように興味があるんで。また、いろいろな経緯を教えてください。そのうち、縁があれば本にまとめていこうと思います。
(以下、続く)

メモ機能のGoogleKeepにしてみた

メモ機能のGoogleKeepにしてみた。
①さくさくと入力できる。
②単語検索が俊敏。
③イラストや画像をまとめて入れられる。それをらをギャラリーでみていると、アイデアが浮かぶ。ドローイングの機能もいい。
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背景には、Evernoteの動作が不安定ということがある。それまで、すべてEvernoteだった。さっと書いて検索も俊敏。しかし、昨年から、アプリがうまく機能しない。それで、もう諦めた。
評判がいいので、Notionに移行もしてみたが、いまひとつ使いにくい。検索スピードも不満だ。
で、代わりになるを探したものの、inDesignとの関係でMacのOSが古い(10.11.6)、なので、最新アプリは使えないものが多い。
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Evernoteに代わるもの。簡単にメモ書き、下書きができて、検索が俊敏なもの。そして、途中で壊れたりしそうにないもの。
そうすると、やはりGoogleの機能を使ってみるかということになった。
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ただ、不満なことはある。
①文章のボールドがない。Evernoteなとは、大切なところをゴシックにしたりハイライトにしながら、あとでぱっと要点がつかめた。それができない。それで、大切なところは、■をいれることにしている。
②画像を文中に挿入できない。ホームページをそのまま画像入りでコピペできない。
③タグ、ラベルの並べ替えなど、ショートカットできないので、そこがやや不満。

 

「私はこのように聞いた」(如是我聞)

経典は、「私はこのように聞いた」(如是我聞)ということばから始まる。

「私」とは、釈迦に常にともなっていた阿難(アーナンダ)である。経典は、阿難が釈迦の教えを聞いたことをもとに、つくられたということになっている。

釈迦が滅したあとに、その教えが散逸しないようにまとめるという集いが行われた。「仏典結集」(サンギーティ)という。第一回目は、摩訶迦葉マハーカッサパ)が主催して行われた。

阿難は、その時点で悟っていなかった(アラハントに達していなかった)ので、その結集には参加できなかった。しかし、結集の行なわれる明け方、悟りを得て参加したと言われる。

そして、五百人の比丘にむかって「わたしはこのようにブッダが教えていることを聞いた」と語る。それを比丘たちが、納得・了解してまとめられたのが経典ということになる。
  ▽
この「仏典結集」は、古代インド語のサンスクリットで「サンギーティ」という。「サン」は、一緒に、ともに。サンガ(ともに学び合う集い)のサンだろう。「ギーティ」は、歌である。音律といっていいか。

ブッダの教えを確認しながら、音律にしていた。きっとある種のメロディーになっていたはず。そのほうが覚えやすい、伝わりやすい。この場合、文字にしないで、ギータ(歌)として伝承されていった。文字になったのは、滅後百年後あたりか。

その「ギーティ」が、中国で音訳されて「偈」(偈)になった。有名なのは、『法華経』の「自我偈」である。
  ▽
これは、北伝仏教も南伝仏教も同じで、みな阿難が「わたしは聞いた」というところから始まる。

大日如来が説いたとされる密教大日経』ですら、「かくのごとく我聞けり、一時(あるとき)薄伽梵(ばがぼん)は如来の加持せる広大なる金剛法界宮に住したもう」(『大日経』冒頭の「住心品」)となっている。「理趣経」も、しかりである。

法華経』も同様である。
「是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城耆闍崛山(ぎしゃくっせん:霊鷲山)の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶(とも)なりき」(序品第一)ではじまる。

ただ、『般若心経』は異質である。いきなり「観自在菩薩‥‥ではじまる」。また、最古層の経典の『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などは、そうなっていない。いきなりブッダ箴言から始まる。
  ▽
形式としては、ブッダは「問われれば説く」という対機説法なので、「対告衆」(たいごうしゅう)というものがある。

法華経』は「如是我聞」ではじまるものの、対告衆なく、いきなり始まる。「無問自説」という。智慧第一の舎利弗(シャーリープトラ)に向かって説かれる(方便品)のだ。
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こないだ創価の会員と話していて、「経典というのは、阿難が釈迦から聞いたとして説かれた形になっているよ」というと驚いていた。

かれらは、朝晩の勤めは、『法華経』の「方便品」と「如来寿量品」をよむ。そのとき「爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。」とくる。「告舎利弗」というので、舎利弗が伝えたと思っていたのであった。

「それはちがうよ、舎利弗は対告衆なんだよ。伝えたのは阿難ということになっている」というと、「いままで、そんなことは考えたことがなかった」という。

まあ、ひとつの宗教にハマると、大前提の基礎的な仏教の仕組みというか、前提をすっ飛ばしていることがたくさんある。

「知らない」ことを知っていれば学ぼうするけれど、「知らないことすら知らない」と、まったくこれは探求の世界は閉ざされてしまう。

消滅集落にある行政施設の活用の提案

消滅集落にある行政施設の活用の提案をしている。
うちからクルマで30分。まちなかから2時間余。
昨年の3月から、すでに集落に住民はいない。消滅集落。
そこにある施設。活用しないのは勿体ない。
ということで、活用の提案をしている。
  ▽
そこを拠点に〈まちなかから〉人が来るようになればおもしろい。
人がいない秘境。そこが魅力。センス・オブ・ワンダー体験ができる。
まったく川の水は美しい。キャンプも可能。
囲炉裏を囲んで焚き火をして語り合いの集いが持てる。
親子のお泊り体験も可能。
しかし、道は良くない。石が落ちてきて危ない。
道路の補修も必要。豪雨のときにリスクはありそう。
それと、懸念されるのは、活動によって移住者が出てきたりすると、せっかく集落仕舞をしたのに、住民がいれば道路の補修、がけ崩れの補修など、費用が増える。そこが、都市経営上問題と思われるかもしれない。
  ▽
地方では人口減少が避けられない。そのためには、「選択と集中」の考え方を徹底してゆく。投資と施策を集中すべきである。
「東京一極集中」を防ぐためにも、「若者に魅力のある地方中核都市」を軸とした「新たな集積構造」の構築が目指す。
ゆえに、コンパクトシティの方向。コンパクトな拠点間を交通・情報ネットワークで結ぶ地域構造を構築して、行政や医療・福祉、商業などのサービス業の効率性や質の向上を図る。( 日本創生会議・人口減少問題検討分科会での議論 増田 寛元也 元総務大臣座長)
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4月末に行政によるヒアリング。ずらっと部長クラスに囲まれての質疑。それによって採点されることになる。
関心のある人、このプロジェクトに応援したい方がいたら、参加してくださればありがたい。池谷まで連絡を。日時:4月26日 14時。浜松市役所。

プレゼンを成功させるコツは「三つの質問」

プレゼンを成功させるコツは「三つの質問」

最初から企画に対する疑問点が三つ出てくるようにして、その答えとなる三つの理由を用意しておく。
三つの質問で出てこないようなプレゼンは、企画そのものが過去の延長だったり、当たり前過ぎて面白味のないものである。
そして大切なことは「自分なりの論理」で、「結論を一言でいう」ことだ。
(『サラリーマン再起動マニュアル』大前研一著 小学館2008年)
  ▽
図書館に行くと、廃棄本のリサイクルコーナーがあった。大前研一の本をもらってきた。もう20年前のものだ。
ぱらぱらとめくっていると、まあ、そんなもんかなあという内容で大した感銘もない。が、なるほど、とためになることが書いてあった。それが上記のプレゼンを成功させるコツは「三つの質問」だった。

4月末に「センス・オブ・ワンダーin消滅集落」のプレゼンをすることになっている。あれもこれもといろいろ企画提案しても、相手は関心がなかったり、はあ?ということは多い。
企画に対する疑問点を三つ想定して、それに対して詰めていくことにしよう。何事であれ、三つというのはポイントだ。
  ▽
「まとめて一言でいうとなんだ?」
「それはこういうことです。そして、次の三点がポイントです。」
まあ、そんなところをトレーニングしておこう。

カルマ(業 ごう)は必ず返ってくる

カルマ(業 ごう)は必ず返ってくる。
インドでは、それを〝カラム・カルマ〟という。
ヴェーダ哲学の根底にある思想だ。

仏教では、カルマ(業)は、身口意の三業(さんごう)という。
ヒンドゥーでは、身と言葉のみ。心は入らない。
しかし、言葉と身体は、かならず心から出てくる。なので、心こそが大切となる。
  ▽
過去世での行為はいずれ必ず自分に返ってくる。いま自分の行ったことは、やがて自分に返ってくる。因果応報の法則。

即、返ってくることもあるし。長い間かかって返ることもある。過去世のものが返ることもあるようだ。
ともあれ、いつ返ってくるのか、わからない。

縁によって種子となって育って、果実をが収穫される。因は縁によって結果となる。種を播いたら収穫される。
  ▽
よくないカルマを軽くしたり、あるいは返ってこないようにできないものだろうか。
いいことをしたから相殺されるってことはないのだろうか。

どうも、ないみたいだ。
以下、思いつくまま引用してみた。

『ダンマパダ』より

「71 悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われ火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。」

『なまけ者の悟り方』(タデウス・ゴラス著)

「カルマというのは、昔、自分が行なった行為のつけを支払うということではありません。あなたのバイブレーションがあがるにつれて、過去では避けてきた種類の体験に出会うようになったり、今、あなたが表面意識で欲していることとは違うことにぶつかるようになる、というだけのことです。

そんな時、新しい体験に対して心を閉ざしてしまうと、あなたのバイブレーションはまた元の低い状態に戻ってしまいます。」

『御義口伝』(日蓮の説いたとされるが偽作説濃厚。だが思想としては面白い)

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身、念念に起るなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は精進行なり」

無限の過去世からのカルマが、南無妙法蓮華経と唱えることで、瞬間瞬間、滅尽していく。まさに唱題行は、精進行である。(池谷の超訳

iPadで将棋を指す

あかりと将棋を毎日、3局は指すことになっている。
近頃は、iPadで指すことになった。

iPadだと、毎回の「対局」が保存できる。
棋譜」(対局手順を記録したもの)が保存される。
何手で勝ったのかも。

おとうちゃんは手を抜かないので、はやいときは30手、手こずるときは100手くらいになる。あかりは厳しい。「待った」もなし。まちがえて打っても、許してくれない。

あかりは毎回、強くなってきた。
きっと来年の今頃は、おとうちゃんはあかりには勝てない。
女流棋士になれ」と言っている。

『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』(佼成出版社) 4月16日に見本が出来あがる

スマナサーラ長老が道元禅師を読む』(佼成出版社
いよいよ4月16日に見本が出来あがるとのこと。
テーラワーダ仏教協会の機関誌「パティパダー」の編集後記。
曹洞宗が推薦してくれるといいんだけど(笑 
さて、どうなりますか。