【工夫探求の禅】2025.10.16
臨済宗国際禅センターでの接心体験は、それはそれは厳しい「軍隊禅」のような世界だった。「峻烈」であり「剛」の禅だ。
ともあれ、私は僧侶による叱咤激励で励まされ、四日間をやり通した。吐く息も吸う息も、ひとつも油断せずに実践する丹田呼吸法。全身の細胞に生命の活力が満ちあふれる感じで、心身ともに活性化した。私は確かな生命的な実感を得た。
ただ、硬い樫の木の警策(けいさく)で打ち据えられるのは、あまりに痛くて怖かった。千葉の山奥ということもあり、それ以降、その接心には行かなくなった。
しかし、いろいろなところで座禅を試してみたいという気持ちはあり、今度は有名な「円覚寺」で体験したいと思い、女友達を誘って参加した。
31歳の秋だった。
ところが、そんなにかんたんに坐らせてもらえないのが円覚寺であった。
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まず面接がある。問答したのは、30代の意気盛んな僧侶であった。
僧「何しに来たんだ」
私「坐禅をしたいのです」
僧「お前なんかに、できるはずがない」
私「そこをなんとかお願いします」
僧「だめだ、帰れ」
私「お願いします」
僧「帰れ」……というようなやり取りがあった。
私は、いまもそうだが、生意気なところがあり、それが気に食わなかったというか、円覚寺の禅風に合わなかったんだと思う。やり取りしているうちに時は経つ。
やがて、向こうも「仕方がない」と感じたようだ。僧「ううむ。もう暗くなってくるし、よかろう、坐っていくか」
私「はい、ありがとうございます」
ということで、坐らせてもらうことになった。
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そこは円覚寺の「居士林」というところで、まるで剣術の道場みたいな場所であった。それはそうだろう。
もともと柳生新陰流の剣道場を移築したものだった。1928年(昭和3年)に、柳生徹心居士が寄進して、在家修行者のための禅道場「居士林」となった。
歴史の重みを感じた。漱石は、1895年(明治28年)の春から同年秋にかけて、円覚寺塔頭の乙訓院(帰源院)に滞在し、坐禅修行をした。大拙は円覚寺の禅僧・釈宗演のもとで本格的な禅修行に没頭した。
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さて坐ると、ぴりぴりしてまことに厳しい空気である。
僧侶の叱咤の声は激烈で、少しでも音を出すと「やかましい」と虎の咆哮のように怒鳴る。思わず緊張する。
参加者は30代〜50代、40〜50人ほどか。
私など、「生意気なやつだ」と思われていたので、最初に警策で打ち据えられた。それは、以前の臨済宗国際禅センターより遥かに厳しかった。
打たれる一発目から、「こ、これは」と驚いた。あまりに本気すぎる。
しかし、逃げられない。歯を食いしばって耐えるしかない。その日は、12発ほど打ち据えられた。
そして就寝となるのだが、「就寝!」という大声があると、ばぱぱと布団を広げて一分くらいで潜り込む。そして、僧侶が何故か、警策で布団の上を思い切り打ちのめす。
それが終わると、参加者は起き出してゴソゴソ支度をして寝るという流れで、まあひとつの禅の儀式というのか。
そんなことを知らない私は、「わ、いったい何だ、どうしよう」と不安になったものだ。
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早朝の4時からまた坐禅である。
やがて、大太鼓がどーんどーんと鳴り響く。
僧堂師家(おそらく足立大進老師)による『碧巌録』の提唱に参加できるという。
説法の対象は、円覚寺で修行している若手の僧侶たちだ。臨済宗の法要は、ほとんど無言である。
太鼓と鐘によって、所作がぴたりと決まっている。
禅はもともと中国の宋から伝わったもので(おおもとはインドであるが)、万事が中国風である。僧侶たちは、太鼓や鐘の響きによって『般若心経』を唱えながら、向かい合って立っている。やがて僧堂師家が出現して、椅子に座る。
そして、『碧巌録』の一節を読んでは説法する。内容はよく覚えていないが、凛とした空気感が伝わってくる。師家ともなると、場を清めるというか「あたりはらう」ような力があるなあと感心した。
他の宗派では、考えられない威厳を感じた。私たち在家は、僧侶の後ろにいて聴聞させてもらえるだけだ。
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昨日、友人の真言宗の僧侶と話して知ったのだが、今の円覚寺は横田南嶺老師になって、もうそんなに厳しい雰囲気はないという。
「坐る坐禅」ではなく、「坐りたくなるような坐禅」を心がけているという。身体と心を整え、和らげる「柔」の禅といえるか。
友人は「寝る坐禅」の指導を受けたという。
白隠禅師の『夜船閑話』(やせんかんな)に説かれている坐禅法を工夫したものらしい。
江戸時代の禅僧・白隠は修行のしすぎで「禅病」を患い、そして白幽という仙人から教わった健康法・養生法を実践した。
特に「軟酥(なんそ)の法」が有名だ。「軟酥」とは、溶けた酥(チーズやバターのような乳製品)のことで、温かい軟酥が頭から体全体に溶けて染み込んでいくのを想像する。
頭のてっぺんから、温かい軟酥がゆっくりと体全体を潤していく様子を想像する。軟酥が肩、胸、腹、そして両足のつま先へと流れ落ちていくイメージを続ける。
このイメージによって、のぼせていた気を下げ、全身の気の巡りを整えるわけだ。
──ううむ、あの円覚寺がそうなっているのか。
横田南嶺老師にはまだお会いしたことはないが、優しそうな見事な顔立ちである。今では臨済宗の重鎮だろう。
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たしかに「寝る坐禅」というものは究極だろう。ヨーガでも「死体のポーズ」(シャヴァーサナ)がもっともラクでもっとも難しいと言われる。
一見すると最も簡単で安楽な姿勢だが、最も集中力と内面の力が試される、究極の修行法だと思う。
なぜか、寝るとどうしても妄想が沸き起こりやすいからだ。妄想が止まるのが坐禅のポイントだが、初心者が寝た姿勢で行うと、すぐ妄想してしまう。
やはりしっかり背筋を立てて、丹田に力を入れる坐禅のほうがかえってラクなのかもしれない。
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私は今、病気なので寝ているときが多い。
その際はヴィパッサナー、すなわち吸う息・吐く息に気づくという観想法を実践している。
禅という伝統が、時代とともにその表現方法を変えながらも、その核心——「自分に合った道を見つける」ということが大事だろう。
まあ、ともあれいろいろな方法がある。自分に合った道を見つけるしかない。
工夫探求する世界は無限にある。体を緩ませ、安楽な道もある。
坐禅という「型」を通して、常に己の心と身体と対話し続ける、ひとりの人間の「工夫探求」ともいえる。