【見えるとは何か・聞こえるとは何か】2025.10.17
「見える」という現象は、光が物体に反射し、それが目に入ることで初めて成立する。だから、夜は物が見えない。
北インド、ヒマラヤの麓にあるチリアノーラという地に、ヘラカーンのババジのアシュラムがあった。そこで、私は女神を供養する法要「ナヴォラートリ」の儀式に参加したことがある。
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日の出とともに瞑想を始めると、闇の中からヒマラヤの山脈が少しずつ姿を現した。光とともに山々は浮かび上がり、刻一刻と色を変えていく。グレー、青、ピンク、オレンジ――色は次々に変化していった。
ヒマラヤは山というよりも、巨大な「壁」だった。太陽光を反射する、途方もなく大きなキャンバス。
太陽が現れなければ、そこに山があっても見えない。また、光があっても、それを反射する物体がなければ、やはり何も見えない。
私たちが「色」として認識しているものの正体は、実は「光の反射」に過ぎない。すなわち、光がなければ見えず、反射するものがなければ見えない。
これこそが、「見える」という現象の根源的な条件である。
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幼い頃の記憶が蘇る。
木戸の杉板の節穴から、朝の光が差し込む。その光の筋の中を、無数の細かなほこりが舞っているのが見えた。いわゆる「チンダル現象」である。
母は毎朝、私たちが寝ている部屋の雨戸をガラッと開けて掃除を始めた。手ぬぐいを姉さんかぶりにして、白い割烹着を着て、畳を箒で掃いていた。仕上げに、昨晩出たお茶殻をまいて掃き集める。湿った茶葉が、ほこりを絡め取るのだ。
朝の光の中で、ほこりが舞い飛ぶ様子をよく覚えている。光が見えるのは、光を反射する物体(この場合はほこり)があるからだ。舞い踊るほこりは、光がなければ見えない。そしてまた、舞い踊るほこりによって、光の存在を知ることができた。
光という条件が、そこにあるものを「見える」ものにする。夜空の星も、光が反射するから見える。反射するものがなければ、光は光として見えない。
同様に、遠赤外線や紫外線といった光(電磁波)の一種であっても、私たちの目が感知できる範囲を超えていれば、それは「色」としては見えない。
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音もまた、同じだ。
人間が聴き取れる周波数には限界がある。超音波や超低周波は、たとえ空気を震わせていても、私たちの耳には届かない。
例えば、コウモリは超音波を発し、その反響(エコー)によって周囲の物体を認識する。
スリランカを旅したとき、無数のコウモリが群れをなし、黒い雲のように渦を巻きながら飛ぶのを見た。彼らには目がない(あるいは視力が弱い)にもかかわらず、互いにぶつかることはない。それは、自ら発した超音波の反射によって、互いの位置と距離を正確に把握しているからだ。
イルカも同様に超音波を使い、クジラの歌は驚くほど広い周波数帯を含んでいる。つまり、私たちの耳には捉えられない「音」が、この世界には無数に存在している。
この世界には、私たちが感知できない無限の領域があり、そこには無数の波動が満ちているのだろう。もし人間がそれらすべてを感知していたなら、脳は情報過多に陥り、正常に機能できなかったかもしれない。
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生きていくうえで必要な情報――「暮らしの邪魔にならないレベル」の光と音だけが、選ばれて私たちの意識に届く。
私たちの認識は、生存に最適化された「フィルター」を通したものである。
禅の瞑想中の体験が思い出される。あのとき、奇妙で異界のような生物が次々と眼前に現れた。
あれは、深い集中によって普段は遮断されている感覚回路が開いた結果なのかもしれない。あるいは、単に脳が生み出した幻想だったのかもしれない。
いずれにせよ、それは私たちの日常的な認識が、世界のほんの一部でしかないことを示唆している。
「眼・耳・鼻・舌・身・意」は、自己を認識するためのツールであり、言い換えれば「フィルター」である。
触覚、嗅覚、そして第六感など――異文化の認識論に広げて考察していくと、さらに興味は尽きない