過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

板橋興宗禅師との出会い

山奥で支え合って暮らしている横田夫妻のことを書いたが、その続き。
遺品の中から板橋興宗禅師の書をみつけた。そして、私にくださるという。
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板橋禅師とお会いしたのは、10年余も前になる。
禅師の語りを本にするために、出版社の社長と福井県武生市の御誕生寺をお訪ねした。まる2日間のインタビューをしたのであった。
その原稿は、出版社の社長と私の意見があわず、最終的に本にするまでは至らなかったが。

その時の20時間ぐらいの取材テープはある。縁があれば、本にしていきたいものだが。
ともあれ、板橋禅師とお会いしたことは人生経験としてありがたいことであった。
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板橋興宗禅師は總持寺貫首曹洞宗管長をされた方た。いわば曹洞宗でも一、二の偉い方である。

そういった肩書もさることながら、その人柄は春風駘蕩、 ユーモアがあって人を緊張させるということがない。やわらかくて深い香りがあった。

夕方の坐禅の時、禅師の隣に坐らせてもらった。すると禅師は、こっくりこっくりと居眠りをされていた。
「わしはよく居眠りするんだ。弟子が、お師匠は坐禅の時よく眠りますよと、その写真を見せてもらったことがある。わはは」 

猫が好きな和尚で、そこは猫寺と呼ばれていた、境内には50匹以上の猫がいたように思う。ネコのくつろぐカレンダーも作っていた。お弟子さんも10数名いた。外国人の禅僧もいた。
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取材途中に、曹洞宗の総本山 永平寺の一番偉い貫主(福山諦法禅師)が板橋禅師のところに挨拶に来られた。
10名くらいのお供の若手僧侶がお供をされていた。

禅宗では、こういったトップクラスのお坊さんとの対応の仕方は、独特である。
まず両者が本尊の釈迦如来に向かって礼拝し、般若心経を立って唱える。
その後で、本堂で両者坐禅スタイルで相対する。悠々としたお話をしていたのを覚えている。(板橋禅師:左 永平寺貫主:右)

板橋興宗禅師のほうが先輩なんで、貫主の方はすこし恐縮し、禅師はゆうゆうとしておられたようだった。
 私はそのお二人のやりとりを、眼の前で見せていただいた。なかなか得難い経験であった。

「こんど、貫主を本をつくるといいよ。売れるぞ。わしから言ってあげてもいい」とも。
その板橋禅師も2年前に93歳で亡くなった。
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禅師は、徹底的に禅を極めた方である。学識も深いものがある。
しかし、いわゆる「禅」というものに固執されず、ゆうゆう自在の境地を大切にされた。

「なんまんだー。この三拍子がいいね。これでいいんだ」と、よく言われた。

たくさんお話を頂いた。こんな話であった。

いまを大切に生きる、それこそ人生の極意。仏教の極致。
それは、「いま」を観念的に考えることじゃない。
ひと息、ひと息、一歩、一歩。その「からだの実感」が「いま」。
この実修実究が、仏道修行の究極だよ。

良寛さんの生き方がいいね。
良寛さあーん」と子どもが叫ぶと、「おおーい」とこたえる。
太鼓が鳴ると、その太鼓の響きにつられて出て行く。
「なんまいだ、なんまいだ」というと、「なんまいだ、なんまいだ」と、ひびきを返す。

子どもが静寂を破って、池にぼちゃんと石ころを投げる。
ん?こら!  あ、そうか。子供が遊んでいるのか、ま、いいか。
 それだけ。
良寛さんは、そういう人だったんじゃないか。
良寛さーん  
おお
良寛さーん 
 おおー
こうして、ときに応じて自在に響き返す。こだわらない。
これが、良寛さんだ。