過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

清らかな暮らしをしている修行者がいてこそ、供養でき、その善行力を先祖の霊たちに回向できる

インドやタイ、ミャンマースリランカなどでは、在家が出家の修行者(サドゥ)に施すことで「徳を積む」という文化がある。

きのうやりとりしたタイに暮らしている友人の話。極貧の村であっても、お坊さんに食べ物を供養するために、田んぼの畦道で合掌して待っているという。

かれは出家したものの、あまりのお坊さんに対する尊敬度が高すぎて、自分はそれに値しないのではと、還俗したのだった。
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とくにミャンマーあたりになると、お坊さんに対する人々の尊敬度がものすごく高い。「何かあったらまずお寺に」という生活の習慣がある。

葬式や死者の供養ばかりではなくて、子どもが生まれた、学校に入った、結婚した、引っ越した、豊作になったなど、そういうときには「まずお寺」にいって、お坊さんに食べものを供養する。お金は受け取らない。貯めておくものも受け取らない。

まあ、そんなことでミャンマーのお坊さんは、ごちそう漬けで太った方が多いという印象がある。戒律で一日二度の食事、しかも午後は食べないのだが。
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供養を受けるに値する生活をしている(戒律を守っている)から、人々が供養するわけだ。そして、お坊さんは、食事がおいしいとか、ありがとうとか、一切、言わない。

供養をした人たちのほうが「ありがとうございます」と感謝するのだ。お坊さんに報告するときにも、合掌の姿勢を崩さない。

清らかな暮らしをしている修行者がいてこそ、供養することでき、その善行力というものを、縁のある人々、さらには先祖の霊たちに回向(えこう)することができるというわけだ。