過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

そもそも葬儀にお坊さんは必要ないんじゃないか。

そもそも葬儀にお坊さんは必要ないんじゃないか。

自分たちで、遺族で葬儀を行えばいい。小さくていい。心のこもった儀式があればいい。自分で納得のいくおくりをすればいい。

遺族が導師を勤めればいい。お経はあってもなくてもいい。詩でも歌でもいい。大切なのは遺族の心。

「世間ではそのようになっている」という因習で行う必要はない。そもそも、いまの仏式葬儀のありようは、たかだか戦後。あるいは江戸時代の檀家制度からの浅い歴史だ。

よむ人も、聞いている人も、死んでいる人も、意味のわからぬものがお経だ。意味不明の呪文であり、そんなものが死者(死霊が聞いているとして)に届くのかどうか。

もしも死霊がいて、うれしいと感じるとしたら、それは坊さんのお経よりも、遺族の落ち着いた心だと思う。お経はその心の安定性、集中に役に立つのかもしれないが。

そもそも、「お経」ってなにか。ブッダが生きる人のための教えとして語ったものだ。死んだ人のための鎮魂のお経となど、一つもない。

さらに、お坊さんに葬儀をやってもらう必要はないのは、次の3つ。

①葬儀のストーリーっておかしくないか。
死者が、出家して戒名をもらい、修行するというストーリーが葬儀。
しかも、故人が仏教徒であるとは限らず。仏教徒でもなかった人が、死んでから出家して修行するっておかしくないか。(真宗は、戒律も修行を必要せず、みんな往生する教えなので、戒名は不要。しかし、法名はつける)

②戒律を守らぬ人が、死んだ人に戒律を与えるっておかしくないか。

与える戒律は、在家五戒(殺さない、盗まない、ウソをつかない、性的な交わりをしない、酒を飲まない)。しかしだ、戒律を与える坊さんで、それを守っている人はいるかといえば、まずいない。

戒律を守ってない人(戒師=坊さん)が、すで死んだ人に与える守りごと。もし死霊がいたとしても、仏教徒として生きようなんて思ってなくて、戒律など守ろうとしない人に戒名を与えるって、ヘンだ。

③お布施の多寡による戒名の優劣っておかしくないか。

居士だの院号だの信士などと、死んでからそんなものが必要なのか。さらには、それがお布施の多寡で優劣をつけられるなんて俗世の見栄そのものではないか。

次回は「お墓」について書いてみたい。